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最近、配布したこと。

 投稿者:飯田  投稿日:2019年 9月15日(日)01時07分53秒
  最近の私の活動は縁があった信者の方や牧師にレポートを配布したりしてました。
去年、日記に書いた内容ですが、去年の暮れあたりから今年にかけてプリントして配布したりしていました。
内容は「原罪について」です。「罪」はいつヒトに入ったのか、何が「罪」なのかです。
ここで質問したのに回答が無かったので、主に求めて与えられた内容を書き記しました。

下に紹介します。
http://jesus.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/2686891/

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2018/06/09 [00:18]
創世記
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

3:1 主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
3:2 女は蛇に答えた。「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
3:3 でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」
3:4 蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。
3:5 それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」
3:6 女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
3:7 二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。


新約聖書 ヨハネによる福音書
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

この世界は神の言葉によって創られた。
つまり、神が言葉にされた範囲から超えることは「死」である。

神が「善悪の木から食べてはならない。」と言われた。
そう言われたということは、「善悪の木からとって食べることは神の言葉から離れる」ということ。
神のことばの中に命があるのだから、神の言葉から離れたら死となるのは当然のこと。だから「食べたら必ず死ぬ」のである。

ところがエバは神の言葉に逆らう言葉を「聞き入れて」しまった。
「食べても、死ぬことはない。」「食べたら目が開ける」
神の言葉ではないものを受け入れてしまった。
蛇の言葉も主人としてしまったのである。

また、それはこの世界を創った神の言葉に「疑いを持った。」ということでもある。

マタイによる福音書
5:27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
5:28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。

つまり、「食べてはならない。」と言われていたことに対し、食べたことにより罪なのではなく、神の言葉に疑いをもったことで罪が発生している。
蛇の「食べても死ぬことはない」という神の言葉を否定する言葉を受け入れてしまった。
また「目が開け、善悪を知るようになる」を信じてしまった。
それは催眠術である有名人になったと言われ、自分の知る知識でその人物を演じてしまう・・。それと似ている。
完全に知っているわけではないから不完全であるように、「善悪を知る」ことが本当にできていたら、何が罪か理解できていたはずである。
理解出来ていないから「言い訳」という罪を犯し、さらに転落していく。

PCでウイルスが入り込むのにセキュリティホールというのがある。つまり弱い部分。
蛇はその弱い部分であるエバを通して神様の言葉でできた世界に別の言葉を侵入させたのである。

神の言葉が命なのであるから、神の言葉から離れることは「死」。エバは「死」を招き入れてしまった。

善悪の木から「食べた」ことが原罪なのではない。
「食べたら死ぬ」と神が言われた(設定された)ことを否定する言葉を受け入れてしまったことが罪の始まりなのである。

犬でも主人の言うことは聞く。しかし、主人に逆らわせようとする者の声を犬が聞き入れてしまったら、そこで主従関係は崩壊である。


そして「言い訳」という罪が増し加わった。


禁じられていたのに食べたから罪が始まったのではない。
この世界を創られた「神の言葉」に疑いを持ったことから罪が始まった。
「神の言葉」で創られた私たちが、その「神の言葉」に疑いを持つということは、自身の存在を否定することでもある。
その矛盾から「神の存在自体を否定して、自分は独立して存在している」という間違った思い込みに繋がる。

神の言葉(言葉自体が神であるというヨハネの福音書)に疑いを持ったことから始まった罪なのだから、その罪から離れるというのは、「疑う」の反対、「信用する」であり、つまりは「信仰」が立ち返るための唯一の方法であるという、実に単純明快なことなのである。

このような「この世界を創られた神の言葉に疑いを持つという矛盾を正すには信仰により立ち返ることである。」という当たり前な行為をすればいいことが素直に見れなくなっているのは「言い訳」などの罪を重ねてしまったからである。
罪を重ねすぎて立ち返るべき道に迷って戻れなくなったと言える。

マルコによる福音書
11:22 そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。
11:23 はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
11:24 だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。
11:25 また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」

蛇の言葉を信じてしまったから、それが入り込んでしまった。

その蛇の言葉こそ、毒麦である。
マタイによる福音書
13:24 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。
13:25 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。
13:27 僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』
13:28 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、
13:29 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。
13:30 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」


新改訳聖書より
創世記
1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

神、御自身は形がない。神の形として(神殿として)人が創られたとも言えるのではないか。

ヨハネによる福音書
2:19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」
2:20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。
2:21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。

コリント信徒への手紙
3:16 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。
3:17 神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。


さて、エバであるが、蛇から問いかけられたとき、
蛇が狡猾なのは「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」とワザと「どの木からも」と間違えて聞いてきたこと。このような明かな間違いには誰しも答えたくなる。
それに答えると、その答えを否定する内容を話し出す。
人を騙すのがトクイな人はこの「釣り」の手法を用いることが多い。聖書はそういう存在をすでに示していたという部分もすごい。
さて、ではエバはなんと答えたらよかったのか。

ルカによる福音書
10:3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
10:4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。

目的地ではない、途中ではだれにも挨拶をするなと・・
言葉を交わすと騙そうとする者はそれをチャンスと狙っています。

ヨハネによる福音書
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」

そうなんです。私たちが神様から指示されたこと。これは他者にはまるで関係ないことで答える必要はないのです。
「あなたに何の関係があるか。」と答えるべきだったのでしょう。

最初に食べたのはエバ。アダムも食べました。
創世記
3:12 アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」

エバはアダムから創られた。エバにとっての主はアダムであるのに「エバが私に与えた」と、エバを主人のように扱っています。アダムはその時、本来の主を忘れていた。
この忘れている状態を眠っていると聖書は示しているように思います。「目をさましていなさい。」の言葉は「主を忘れないでいなさい。」と示しているように感じます。


創世記
2:16 主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。
2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

主なる神の言われたのは「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。」であり、エバは勝手に「死ぬといけないから食べてはならない」と言ったと勝手な判断をしました。

ヨハネによる福音書
21:22 イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

上記節と同様で、主なる神は「死ぬといけないから食べてはならない」と言ったのではなく、「決して食べてはならない。」「食べると必ず死んでしまう。」と言われたのです。

ヨハネによる福音書
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は、初めに神と共にあった。
1:3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。
1:4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。

アダムが置かれた場所は神が言葉で創られた。
アダムが創られる前に創られた。
私たちが子供のころ、生まれたときに自分の身の回りにあったものは、当時はすでにあったので「当たり前のもの」と受け入れている。実は親が用意したものであるのを理解できていなかった。
アダムも同様である。神が言葉で創られた世界であることを理解していなかった。
だから神の言葉が「絶対」であることを理解出来ていなかった。
神の言葉を否定することは、神が創られた世界を否定すること。
神の言葉を疑う者は、この世界自体をも疑っていることになる。
また「神は言葉であった。」のだから、神の言葉を疑う者は神を疑っていることであり、神の言葉を信じないものは「神の存在を信じない者」となります。
また「言葉の内に命があった」のですから、神である言葉、神の言葉を否定(拒否)するものは命を否定すること。
つまりは「死」です。
創世記で神が言われた「必ず死ぬ」は、今の私の感覚では上記の意味で言われたような感覚がしています。



人によっては、「禁じられたのを食べたことが罪である」と言い張り、ここに書いた「主人ではない蛇の言葉を受け入れ、主である神の言葉に疑いをもったこと」は「まだ罪ではない」とする方々がいました。
では逆に聞きたい「この世界を創れた神の言葉に疑いをもち、神の言葉を否定(つまり神御自身を否定)する」ことは「罪」ではないのかと。
この部分が原罪であるから、いまだに罪の中にあるものは「神の存在を否定」しているのではないかということ。

ではこの罪から立ち返るには?
「神の言葉(神の存在)を疑った」ことがはじめなのだから、立ち返るのは間違いを認め(受け入れ)、信じるものとして生まれ変わること。つまり「信仰」であるという実にシンプルなことだったのである。

入り込んだ悪い知恵のおかげで、「言い訳」したり「責任転嫁」してきたおかけで、この実にシンプルな部分が見えなくなっていたのである。

聖書をもう一度通して読むと、上記のことがよくわかる。
旧約聖書でも、神の言葉を信用して従おうとせず、逆らってばかりでそのたびに戒められていた記録。
新約では、人が神から離れすぎて神を見失ったために、神が肉の身体で人々に示しにこられたこと。
私たちが神に逆らっていた「罪」があるために、素直に戻れなくなっていたところに、その罪の購いとして十字架にかかってくださり、私たちに背きの罪を負わせられなかった愛。

神の言葉でつくられた世界に住む私たちが、神の言葉を信じなかったために、その神の創られた世界からはみ出してしまっていたのは当然のこと。それはその神が創られた世界でしか生きられない(存在できない)私たちが、せっかくの命を失わないように神様が聖書を通して私たちにずっと教えておられたということです。
 
 

ここでの内容で興味あったこと。

 投稿者:飯田  投稿日:2019年 9月15日(日)00時58分52秒
  ここでの書き込みの中で興味あったのは、

https://6017.teacup.com/simeon/bbs/939
>マタイによる福音書20章「ぶどう園の労働者のた
>
>とえ」を読んだ後、説明抜きで全員に感想を書いてもらいましたが、意外に多彩な
>
>反応がありました。それをワープロで清書して今日の授業で読み上げましたので、
>
>それを紹介します。

結局、そこで説明された教科書の内容が書かれていないので、どんな解説なのか興味はありますが、この聖書の部分は私が神様から直接目を開かせていただいた部分であり、
ちょうど10年前に、その当時を思いおこして信仰の道に入ったことを日記に書いていました。
http://jesus.sns.fc2.com/exec/member/blog/view/270714/

以下に転載します。


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2009/06/08 [00:04]
私が神様のすばらしさを知った聖書の部分

私は聖書を手にし、始めに創世記から読み始めた時、まず1章で驚きがありました。
それは、聖書を知る前に私が世の中について悩み、瞑想をしていたのですが・・。
小学生の頃から寝る時に「死」の恐怖を感じることがあり、なんの為に生まれてきたのか悩んでいたころからの問題点ですね。

自分がこの身体で生まれる前には「自分というものが存在していなかった」という部分に疑問がありました。そして「死」の後は「自分」というものが無くなってしまうのだとしたら、「自分とは何なのだろう」と・・。

それから、自分が生まれる前から人類は、同じように生まれ死んで行っているワケですが・・・。 それがどこから始まったのかを追い求めていました。

まあ、その始まりらしきものは進化論やビッグバンなどの話へと行き着くワケですが・・。

自分の生まれる前の事を考えると、この世界が始まったビックバンの以前をも考えてしまうようになりました。 それを考えるようになったのは30代に入ってからでしたが・・・。

ビッグバンの前には何があったのか・・。 無のままであったのだとしたら、その無のままで無限の時があり、今の世界がある先にも無限の時があるのだとしたら・・。
無限の時間の中では、たとえ1秒であろうとも、100万年であろうとも、フラッシュのまたたきのようなものです。
1を無限で割っても、100万を無限で割っても、それはゼロにほぼ近いのです。

無限という時の中ではすべてが「無い」に等しい。
(科学では時間というのもビックバンにより物質ができてはじめて存在するという理論になりますが・・・。 時が無いということは止まったままであったとも言えるので不思議です。)

ビックバンは、「何かのキッカケで爆発的に起こり、連鎖で物質が誕生した」ということになるようですが・・。

そのきっかけとは何でしょう?
何も無いところにどうしてきっかけが起こりうるのでしょう?

私は、そこに「意識」というものが存在しているのを感じました。
よくは分かりませんが、「形を成そう」という意識なる存在が無ければ、何も起こることはありえないと感じました。
私はそれを自分の中で「大いなる意志」と名をつけました。

その大いなる意志を求めて瞑想を続けていたわけです。

ビッグバンの前の何も無い状態を瞑想していました。

何も無いと、自分という意識はあっても、自分が「在る」と言い切ることはできないことが分かりました。
たとえば、何も無い空間に石が一つあったとして、それを認識してくれる存在が他に無ければ、それは「在る」とは言えないのです。

今の世の中で考えてみましょう。
「幽霊を見た」という人がいたりしますが・・・。
一時現れて消えてしまい、その後に再び現れないのであれば、
「在る」と証明ができないのですよね。
再現性が無ければ「在る」と決定できないのです。

自分の目の前に、一瞬、確かに何かの顔が出てきて消えてしまったら・・。 その見た時は「確かに見た」と思えるのですが、時間が経つとともに、もうそれと同じ事が起こらない限り「気のせいだったかな?」とだんだんとアヤフヤになってきます。
さて、その状況になったとき、その急に出てきた顔は、確かにあったのか、または無かったのか、どちらなのでしょう?
それを決めるのは、見た人の心次第です。
もう二度と現れないのであれば、その時はもう再現できないのですし、時は戻せないのですから、「たしかに見た」と思えば、確かに存在していたことになり、「気のせいだったかも」と言えば、その存在は「気のせい」ということに決定されます。

つまり、存在とは、他者に認識されていれば「在る」であり、他者に認識されて居なければ「在る」とは言い切れないもの・・、つまり存在がアヤフヤなものとなります。

「認識こそが、在る無しを決定している」と言えるでしょう。
この宇宙の他にも、別の空間(次元?)で、似たように宇宙が誕生し、そしていつしか消えていたとしても、そこに意識ある存在の認識が無ければ、その誕生は無意味であり、無かった事と同じになってしまうのです。


私たちが頭の中でいろいろと物を作った(世界を空想して創った)としても、他者に認識されなければ、それは無い物でもあります。
形にして他者に示せてこそ「在る」ということが成り立ちます。
(この部分が、神様が私たちを認識してくださっていて、私たちも神様を認識しあうことにより、お互いの存在が固く成り立つ関係の方程式のようなものであり、私たちが神様を認識しなければ私たちの存在もあやふやな状態の上になってしまうということでもあります。 私たちがしっかりと立ち(存在として成り立ち)、輝くためには私たちが神様の存在をしっかりと信じる必要があります。 光も光を受ける存在があればその周囲は明るくなりますが、光を受ける存在が無いと光点以外は暗闇のままとなります。)


目を閉じて、暗闇の中で一人でいると、自分の身体というものがちゃんとあるのか不安になります。 なにしろ自分の身体というものが見えないのですから。
本当の暗闇にいると上下感覚も狂うそうですね。

「大いなる意志」は、その何も無い暗闇に「存在」というものを作ろうとしたようです。
その暗闇の何も無い所に、まず何を作りましょうか?
光ですね。
その部分を私は瞑想の中で見ました。
閃光が走りました。 (ビッグバンも始めに閃光のように光が走ると本に書かれていましたが・・)
そして、無限の空間では、実は座標は存在しないのです。
絶対座標というものは無限の広さの中では存在し得なくて、相対座標だけしか認識できません。
つまり方向という概念も無いのです。上下も無い。(宇宙空間はそのようなものですが・・)

拠点として地が必要です。 拠点とするために引力も必要です。
引力が無ければすべてが漂い、拠点が無くなるからです。

これらの瞑想で得た部分が聖書の始めに、言葉で書かれており、非常に驚きました。 私が「大いなる意志」と呼んでいた存在が、聖書で言う神様であったのかと。 私にそのイメージを見せてくださった存在は確かに居て、その証拠が聖書であるかのようでした。

聖書を知らないままでいたら、私はその感じたことはただの自分の妄想として扱わねばならない状態でしたから・・。
聖書が私の感じたことをあかしし、私が感じたことが聖書をあかししているという不思議な状態でした。

そこで何か、私はそこに見えない大きな存在があることを感じ、聖書を読み進めるのが恐くなりました。
私の聖書を読むことは、創世記の1章で、一度止まってしまったのです。

その時、知り合いが「新約聖書から読んでみれば」と声を掛けてくれました。
それで新約聖書から読むことになったのですが、私には前記のとおりの理由があり、すでにわたしにとって聖書は神様の私たちに向けた御心が書かれているものだという認識がありましたので、ザッと読む気にはなれず、しっかりと読む姿勢で読み進めました。

イエス様の言葉は、不思議でした。
通常のこの世にある者に媚ることなく、この世の視点ではない世界をしっかりと伝えていることは感じられましたが、それが明確には見えず、ただ不思議な視点であるという認識しかできていませんでした。しかし、その不思議な視点は、確かに在る、何かの基準がしっかりと立っていることは感じられました。
この世での基準とは違う、それでいてこの世までをも含めている広いところにある視点。

イエス様のたとえ話は、初めは私が心に感じていた事を、非常にうまくたとえで表現していて、受け取り安かったですね。「種を蒔く人」のたとえなどは、このドライな世の中で、私が世に訴えたかった部分でした。

◆「種を蒔く人」のたとえ
13:3 イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。
13:4 蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。
13:5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。
13:6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
13:7 ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。
13:8 ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。
13:9 耳のある者は聞きなさい。」

上記部分は、私が「心で受け取るということは、この世では無意味なことなのだろうか」という不安を消し、「百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。」の部分は、受け取る心が何倍もの価値があることという私の支えと強さを与えてくれました。

また、この世の時勢で、この先への不安があるときには
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。

6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

上記の部分が、私の不安を消してくださり、自分という価値に不安をもっていた私を強めてくださいました。

そして、イエス様のたとえ話は、だんだんと難しくなって行きます。
私は下記の部分で躓きました。

◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
20:1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
20:2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
20:3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、
20:4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。
20:5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。
20:6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、
20:7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。
20:8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。
20:9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。
20:10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。
20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。
20:12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
20:13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。
20:14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。
20:15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』
20:16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


早い時間に雇われて、必死になって働いたのに、どうして1時間しか働かなかった者と同じ賃金であるのかと、疑問と不満が起こり、
「どうしてそのような納得できない事をされるのですか?」と、その御心を求めました。
驚きました。翌日にその部分の解答が頭に流れ込んできました。
「みんな、その日を越すための糧を求めている。(1日分の糧となる賃金が1デナリ(デナリオン)
朝、ぶどう園へと声を掛けられた者は、そこで「安心」を得た。
救われたのである。
半日、仕事を求めて待っていた者は、多くの不安があっただろう。
仕事にありつけるのか、ありつけたとしても半日分しか得られないのではその日を越すのに厳しい。
夕方まで待っていた者はなおさらのことであろう」と。

つまりは、理不尽に見えていたことが、実はすばらしい神様の御心としては、「救い」という面であることに気がつきました。
夕方まで待って多くの不安を抱えた者から賃金を支払ってやり、一番多くの不安を持っていた者から「安心」という救いを与えられたのです。

確かに、早くから働いていた者と、後の者でも、どちらも朝から仕事を待ち望んでいたわけです。 早くに声を掛けられた者は別に特別な者であったからではないのですし、後に声を掛けられた者も、別に悪い事をしていたから声を掛けられたのが後になったわけでもないのです。

たまたま早くに声を掛けられた者が、早くに安心と、多くの賃金をもらうことの方が不平等ですね。
今の世の中に残っている年功序列の不平等(先に生まれ、先に就職した方がずっと有利のままという世界)に不満を持ちながらも、それを容認していた自分の矛盾に気がつかされました。
また、神様は何よりも心を大切にしてくださる御方であるということが、そこで解り、その「心」に対する公平さには驚きました。

この世に染まっていた私たちの視点とは違い、イエス様は本当の公平を知っておられたということが驚きでした。
イエス様は、私たちの知らない真実(神様)を確かに知っておられると感じました。 そうでなければ、このようなたとえ話は絶対にできないものだからです。

そして、ひととおり新約聖書を読み、旧約に戻って旧約聖書を読み終え、
再び新訳聖書を読み進めていて、この◆「ぶどう園の労働者」のたとえ
の部分を再び読んだ時、イエス様の教えがもう一つ隠されていたことに驚きました。

それは、残り1時間で雇われた者の部分。
どうでしょうか?
普通なら、その日の仕事はあと1時間で終わるという時まで、仕事がもらえることを期待して待てるものでしょうか?
普通なら、半日経過した所で諦めてしまうものではありませんか?
残り1時間なら「絶望」しているものではありませんか?
「もし、仕事が得られても、今からではもう1日を越す分の糧は得られない」と。
しかし、主は「1デナリ(デナリオン)」を与えてくださるのです。
ここに主からの「決して諦めずに待ち望め。どんなにあなたが、もう間に合わないと感じてしまう時でも、最後まで待ち望め、主の救いは決して最後の時に間に合わないということは無い」という、聖書を通して示されている部分がそこにあったのです。


私たちは、よく物事がうまく行かないと絶望感を感じることがあります。
私たちの観点から「もう間に合わない」と思ってしまうことから「絶望」をしてしまうのです。
まだ、その物事の結末の時が来ているワケでもないのに「もう間に合わない」と勝手に絶望したりしているんですね。


本当に大切な事でなければ救いを与えずに「絶望感」(絶望とはちょっと違う)を与えられることもありますね。 それは私たちを砕き、より大きな恵みに気がつかさせるためであったり、より大きな恵みを受け取る体勢にするためであったりします。
私たちは小さなものを握りしめ、その手がふさがり、大きなものを受け取り損なうことがありますから・・・。


イエス様のたとえ話は、非常に多くの事が凝縮されており、ちゃんと旧約聖書に繋がっており、御父の御心を私たちに非常にわかりやすく説明されているので驚きばかりです。

イエス様は世(人々)の光です。
イエス様の言葉を受けて清められ白くなれば、イエス様の言葉を私たちが反射し合い、世(人々)が光に包まれます。
 

きつめの文章になりましたが・・

 投稿者:飯田  投稿日:2019年 9月15日(日)00時52分12秒
  きつめの文章になりましたが、私が「行かなくなった」のではなく、「回答を待っていた」のです。
 

井本牧師よりメールをいただきましたので・・

 投稿者:飯田  投稿日:2019年 9月15日(日)00時50分29秒
  井本牧師よりメールをいただきましたので、ごぶさたしている挨拶も兼ねてこちらで返信致します。
「修道院長の日記」第4回のストーリーに入れられている
「ホームページの編集のことで意見がかみあわなかったせいか、ぱったり来なくなったのは残念であった。」
この件は、大月新生教会を近所の人が知らなかったと井本牧師から聞き、確かにネットで検索しても、このページにも「大月新生教会」の名称が見出しに無く、検索では他のサイトの紹介が少しヒットするだけでした。そのために「大月新生教会」を周囲に知ってもらうために「大月新生教会」の見出しのホームページが必要と訴えそれで作る話になったのですが、いざ作る段になると井本牧師から「表題を何にしますか。○○というのはどうですか」と「大月新生教会」の名の無い別の見出しを提案されました。
「大月新生教会」の見出しのホームページが無いと検索に出ないから作る話なのに、別の表題ではまるっきり意味が無いのでそこで止まりました。

また、教会の牧師によくあることですが、外国の賛美歌に自分で日本語の歌詞をつけたがるのはいいのですが、そこに(歌詞)として自分の名をいれて配布したがったり、ビデオ教材を作りたがったり、そこに自分を登場させたがるのです。

聖書で「自分の命を捨てるものは命を得る」とありますが、自分の我を捨てる事により主から霊の命をいただける。それによりその霊により創造主なる神様を「父」と呼べるのですが、肉の自分を主張するものは肉に属しており、神様より自分を立てているものです。

聖書には書かれていない自分の考えを主張したがるのは、悪魔に打ち勝ってはいません。

この件の前に、教会の十字架を90度角度をつけた位置にも横木をつけたいという話がありました。
その時に「十字架は教会のカンバンみたいなものだから、横から見ても十字架にみえるようにそうしたい」と。
昔、どこかの異端な教会がそんなのをシンボルとして掲げていましたが・・・

十字架は横から見たら確かに縦の棒しか見えません。正面に来なければ十字架に見えないのです。 これは、神の前に出る。自分が架けられるべき十字架の正面に出る。つまり「自分の罪」を正面から受け止めるということから、正面からでなければ十字架に見えなくて当然なのです。 横から見るというのは自分の罪を横から見る。神様の前に出ないという意味にもなります。

私達が掲げる十字架は「カンバン」という発言。自分の罪を軽んじて見ているとしかいいようがありません。
この件は日本基督教団の本部に確認しようと思ったほどです。

この部分があやふやでは、礼拝の内容も軽いものとなってしまいます。
このままでは私自身がここでの礼拝を受ける気持ちになにれません。

ただ、その前に確認を使用と去年、ここに書き込みしました。
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https://6017.teacup.com/simeon/bbs/875
それで最近、そういう部分や、他の部分で疑問になった部分があるので井本牧師に質問したいのですが・・

まず、「原罪とは、アダムとエバの行動で、どの部分から罪が始まったか」と、
「信者にとって十字架とは何か」と、
「聖徒の交わりとは何をすべきか」
---------------------------------------------------------------------------------------

そうしましたら次の書き込みで井本牧師からつぎのような書き込みがありました。

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https://6017.teacup.com/simeon/bbs/876
飯田兄のそのほかの「原罪」「十字架」「聖徒の交わり」に関する質問はまた

あらためて掲示板に書き込みますのでお待ちください。

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「お待ち下さい」ということで、ずっと待っていたのです。
いつまで待てばよいのですか?

この部分を放置しては、このまま先へ進むことに疑問となります。
根本的に間違った個人の考えの教えかもしれない疑問を抱えたままでは進めません。
 

***  月曜ブログ小説「修道院長の日記」第4回

 投稿者:井本克二  投稿日:2019年 9月11日(水)21時13分13秒
編集済
         *****  *****

    月曜ブログ小説「修道院長の日記」第4回 シメオン井本執筆


 プロテスタントのこの修道院の主日礼拝に5週ごとに横浜からバイクで出席する

男性がいる。彼は教習所の指導員で定休日が日曜日と重なるのが5週に1回という

のでそうなるわけである。雨の日も、風の日も、雪の日でも差し入れのお菓子を沢

山持って礼拝に出席するが、その顔にはこれまでの彼の苦しい人生がにじみ出てい

る。聖書にはめっぽう詳しくて、論争にたけたエホバの証者を論破して黙らせるほ

どである。エホバの証者といえば私の場合、訪問を受けた最初のとき彼らに「私は

あなたと議論しようとは思いませんし改宗するつもりもありませんが、あなたがど

のような信仰を持っているか興味があるのでしばらくお話ししましょう」と言って

家の中に入れ1時間ほど話し合ったこともある。また、以前アメリカ人のモルモン

教徒の訪問を受け、やはり1時間ほど彼らの主張に耳を傾けたこともある。結論か

ら言えば、エホバの証者は伝統的な三位一体の教理(父、子、聖霊)は否定するも

のの、イエス・キリストを信じており独自の翻訳「新世界訳聖書」を用いているの

でキリスト教の一派と言えるが、モルモン教は三位一体は否定しないものの無視し

ており、聖書ではなく「モルモン経」を用いているのでキリスト教とは言えないと

思う。

 いつだったか彼に誘われて小諸までドライブしたことがある。それはその数か月

前、88年前に昭和天皇がまだ皇太子だった大正12年(1923年)に小諸を訪

れた際、当地の彫刻家清水芳仙が軽石で制作した小諸城600分の1の模型が、野

ざらしで苔むした状態で数年前に敷地内で発見されことを知って、ふたりで確かめ

に行ったわけだ。ついでに小諸市立の島崎藤村記念館、歴史資料館(小諸宿本陣)

も見学した。その計画は元々数人で行くはずだったが結局は二人だけになった。そ

れでも彼は「1対1なので何でも話せる」と喜んでいた。けれどもその後、彼とは

ホームページの編集のことで意見がかみあわなかったせいか、ぱったり来なくなっ

たのは残念であった。


 ≪山梨郡内ジャーナル最新号の案内≫ http://mitachi.life.coocan.jp

「上野原ラブリ通信」第904号 東海教区伝道協議会に出席しました

「鶴嶋修道院便り」第147号 台風15号で溜池は満杯、稲は倒れました

「大月新生教会報」第452号 説教「立派な奉仕者とは」テモテⅠ第4章

「平和をつくり出す人たち」第5号 大月生活と健康を守る会(折り込みチラシ)

   *****

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*** 自然学園高校の前期試験が始まります

 投稿者:井本克二  投稿日:2019年 9月 6日(金)11時55分1秒
編集済
         *****  *****

 全国の皆さん、こんにちは!8月末は曇りがちの涼しい日が続きましたが、9月に入って

ふたたび暑い日となりました。この夏は健康のため遠出を控えていましたが、それでも茅ヶ

崎にでかけて性的少数者LGBT学習会に出席したり、アフガニスタンで活躍する中村哲医

師の講演会に出かけ実り多い夏でした。

 8月28日(木)から大月市梁川のキリスト教学校自然学園高校の聖書科授業が始まりま

した。来週は前期試験で、昨日の前期12回目の授業では試験の事前学習用プリントを配布

しました。要するに試験問題をすべて公表し解答も教えたわけです。案の定、大半の生徒た

ちは本気になりました。試験の後はそれを採点して成績を教務に提出すれば良いだけです。

 9月3日(火)の午後は上野原市総合福祉センター「ふじみ」で第4回上野原の福祉を考

える会があり、いつも6名が参加して2時間余り意見と情報の交換をしました。方向として

は縦割りの行政組織を補完するための横のつながりネットワークを少しずつ広げていこうと

いうことになりました。今日の夜も、それとは別に私が住む島田地区東区の有志による「井

戸端会」があり、福祉課(地域づくりワークショップ)からの誘いもあつて3月以来久しぶ

りに出席することにしました。その帰りに、上野原市りんどうの里美術会の会長が体調に異

変を来たしていたのでお見舞いしたところ、「要介護2」ながら10月の美術展開催の準備

を始めましょうということになりました。私は毎回プロフィール集の編集を担当しているの

で、早速、諏訪湖ちかくの業者オノウエ印刷に連絡しで見積書を送ってもらいました。消費

税は既に10%となっていました。

 思えば昨年は台風の接近で石和温泉駅では既にJRは不通となっていて、オノウエ印刷に

原稿を送信できないのではないかと心配しましたが、教会泊を覚悟して何とか大月新生教会

にたどりついたところ、教会でのミーティングが終ったAA甲斐大月グループのひとりが東

京まで帰ると言うので便乗して、大雨の中、何とか帰宅して原稿を送信することが出来まし

た。これから美術会の作品が次々と集まり、その写真を私がPDFで加工して作者・作品プ

ロフィール集を作成します。9月末から10月にかけて気の抜けない日々となりそうです。

【写真上】甲府県民文化ホール開催の「中村哲医師講演会」山梨英和創立130年記念

【写真中】ホールロビーに展示されたアフガニスタン大旱魃対策としての「緑の大地計画」

【写真下】パキスタンの国境近くアタガニスタン東部クナール川の水利を利用した用水路

      *****

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***  月曜ブログ小説「修道院長の日記」第3回

 投稿者:井本克二  投稿日:2019年 9月 2日(月)07時34分32秒
編集済
           *****  *****

                       鶴嶋修道院 シメオン井本執筆

 私は若い時から女性に人気がなく、以後、現在に至るまで依然として若い女性は苦手である。

その代わり、いつごろからか「個性的な男性、平たく言えば変な男」がいつも私の周辺に出入り

している。独身だった頃、東京の中くらいの教会で無資格のまま牧師のアシスタント(実質的に

は「副牧師」と呼ばれた)として5年間、伝道・牧会に携わった。火曜の夜の「質問の集い」で

は10人程の青年が出席して、当時人気の遠藤周作の小説「沈黙」をめぐって話し合っていた。

その中に、背が高くぎょろ目の男性がいた。あまり発言はなかったが、いつも出席していた。日

頃どこかの精神科に通院して何かの薬も常用していたようだ。あるとき集会後の帰り道で彼は私

にぼそっとつぶやきました。「先生は健康な人の割には病人の気持ちが分かるようですね」。こ

の言葉は以後の私を励ます「評価」となりました。多分、私自身、幼い時に「死と暗闇」を恐れ

熱心なクリスチャンになってからも「自分は本当に救われるのだろうか」と脅迫観念を持ちなが

ら表面的にははなばなしく青年会活動、伝道活動にのめり込んでいたので、彼は私の隠されたそ

の心の襞(ひだ)に気が付いたのかもしれない。その「質問の集い」には不思議なことに、洋装

店経営の40代の上品な婦人もいた。いつも古風な和服姿で、念入りに化粧してくる。若い日、

彼女は武者小路実篤の関係する「新しい村運動」に共鳴していたという。私がその教会の主任牧

師に愛想をつかして5年で退職し、前に述べたように日本全国あちらこちらの教会牧師に応募し

て不合格となり、誰も希望しない香港日本人教会に赴任したので、以後、会うこともないまま、

年賀状だけは数年前までやりとりしていた。今年になって、ある日突然、50代の女性の訪問を

受けた。彼女の娘で、その頃はまだ高校生だった。突然の来訪を受けたが、その顔を見てすぐ名

前も思い出した。「あなた、ゆみ子さん?」。聞けば最近母親が亡くなったので、死ぬ前に「お

母さんもあなたもお世話になったのだから、挨拶に行ってきなさい」と言われたという。

 修道院に来て間もない頃、わたしは隣接の無人の別荘の目障りな藪に勝手にもぐりこんで草刈

りをしていた。すると下の道路から「何をやってるんですか」と声が掛けられ、ひとりの青年が

上がって来た。それが彰さんとの初対面だった。近くの住人だというだけで何も知らないまま親

しくなり、近所の中学校の校長や町会議員、お寺の坊さんなどに引き回された。こうして私はい

わゆる「地域デビュー」を果たしたのだった。そのころ既に離婚していて、隣町に住む息子や娘

と密かに会うことを楽しみとしていた。彼は最初、青少年施設に勤務していたが、性格が粗暴だ

ったせいか退職してからは老人ホームのヘルパーなどをしていた。施設の老人の面倒見は大変良

かったのだが、すぐ主任と対立しては退職したりされたりしていた。


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「上野原ラブリ通信」第903号 アフガニスタン中村哲医師講演会 8/31土甲府県民ホール

「鶴嶋修道院便り」第146号 月曜ブログ小説「田舎牧師の日記」新連載

「大月新生教会報」第451号 どんぐり習字教室が始まりました

「平和をつくり出す人たち」第4号 大月生活と健康を守る会「入浴介護ボランティア募集」

         *****


 

お願い!

 投稿者:片岡喜吾  投稿日:2019年 8月28日(水)09時49分41秒
  井本克二牧師様 巣鴨ときわ教会の片岡喜吾(83歳8ヶ月)です。お久し振りどころじゃありませんね。巣鴨ときわは来年(2020年後半)に創立100周年を迎えます。そこで、25年ほど前に採用した「礼拝次第」を理解し皆さんで共有しましょう。と言うことになりました。そこで、ときわ教会の「講壇」を守っていただいた、牧師様にお願いしてそれぞれの「礼拝次第」(現在の次第)を参考にと思い資料提供の協力をお願いしたくお便りをさせていただきました。
 PCメール(ワード)でお願い文面を作成しましたので、井本先生のメールアドレスを知りたくてお便りをさせていただきました。ご協力いただけませんでしょうか?(この文面は投稿ではございませんので、ご理解ください。先便に変換ミスがあったようです。)
 片岡喜吾:ktokkg@yahoo.co.jp です。乞う ご期待!
 

***  新連載小説「修道院長の日記」第2回

 投稿者:井本克二  投稿日:2019年 8月26日(月)11時18分26秒
編集済
      *****  *****


      「修道院長の日記」第2回 鶴嶋修道院 シメオン井本執筆


 当然のことながら修道院やキリスト教会には様々な人が訪れる。私の場合も、放浪生活を

している初老の夫婦が訪ねて来て「何がしかの援助が欲しい」と言われたこともある。また

日曜礼拝後に来た50代の女性から「相談事があるので聞いて下さい」と言われたので、し

ばらく彼女の複雑な家庭事情を聴いていた。「父親がいつも怪しげな人たちを家に呼んでく

るので家の中にいたたまれません」などと話してくれたが要領を得ないので、「結局はどう

して欲しいのですか」と聞いたところ、「家を出て就職したい」ということだった。そこで

近くに知的障害者を雇用して養鶏を営んでいる「D牧場」の知人に紹介したところ、そこに

はグループホームもあるので話はとんとん拍子に進んだ。どうやら本人も多少の障害がある

ようだったので丁度良いと思い、近々その養鶏の現場やグループホームを見学してから決め

てもらうことになった。その後しばらく音沙汰がなかったのでどうしたのかなと思っていた

ところ、結局はかかりつけの精神科病院の医師の紹介で近くのグループホームに入所したと

の話を風の便りに聞いた。そしてその後はその病院に入院したとも聞いた。お世話が出来な

くなったことは残念だったがひとまず安心した。ここで不思議な経験をした。

 昨年までの数年間、私は県庁所在地を拠点とする依存症リハビリ団体の支援会の運営委員

をしていた。修道院の「超教派、超宗派の地域牧会の試み」として数年前から関わってきた。

その団体は順調に発展して今では全国的にも成功した団体として高い評価を得るようになっ

たので、今年はそこから少し手を引こうと考えていた。修道院から片道2時間近くかかるう

え、隔月に夜間に開かれる運営委員会から帰ると午後10時過ぎになることが多く、交通費

などで毎回4~5,000円かかり、経済的にも体力的にも苦しくなったせいもある。そこ

でこれからは何をしようかと考えて、片道30分ほどの小都市の「生活と健康を守る会」の

一員として生活困窮者などをサポートするボランティアになった。その代表者は70代男性

で、メンバーの通院の送迎、家屋の修理、下水道の清掃などの生活援助ばかりではなく、市

役所や県庁、時には都心の裁判所にまで出向いて、補助金要請・陳情・傍聴活動などをこま

めにしている彼の姿に共鳴した。ある月例会(毎回出席者は10名ほど)に出席したところ

何とその女性の父親が隣りにいたのである。

 もうひとつ別のふしぎな経験もした。その生活と健康を守る会の月例会で、市内の小さな

私立のキリスト教高校の生徒が授業料滞納で退学させられそうなので、会として急場しのぎ

の援助をみんなですることになった。皮肉なことに、ちょうどそのころ私はその高校の校長

(知人でもあった)から頼まれて聖書科の非常勤講師になる予定であった。かくして私は校

長と高校生との間に板挟みとなったのだが、私としては校長に生徒支援の話は報告しないこ

とにした。  第1回は8月19日(月)に掲載しています。

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 「上野原ラブリ通信」第902号 茅ヶ崎のLGBT学習会に出席しました

 「鶴嶋修道院便り」第145号 川崎のケアマネ風天(投稿)「現在・過去・未来」

 「大月新生教会報」第450号 説教「清い手をあげて祈る」8/25 テモテへの手紙

 「平和をつくり出す人たち」第3号 大月生活と健康を守る会の折り込みチラシ

      *****
 

***  茅ヶ崎の性的少数者LGBT学習会に行ってきました

 投稿者:井本克二  投稿日:2019年 8月23日(金)10時26分48秒
編集済
             *****  *****

 全国の皆さん、お早うございます。上野原は小雨が降る涼しい朝です。昨晩は昼前に

家を出て上野原⇒高尾⇒八王子⇒橋本⇒茅ヶ崎と乗り継いで茅ヶ崎駅近くの雑居ビル3

Fのライブハウス「UTTA pang pang」で開催された「多様性フォーラム湘南」(芳

谷大介代表)主宰の学習会「LGBTについて学ぶ」に出席しました。いつものように高

尾駅前の「蕎麦と酒肴たまの里」高尾店で昼食を取りました。いつも注文するのは刺身

定食で必ず蕎麦がついてきます。それから2時間かけて茅ヶ崎に出ました。読書の時間

で、山谷省吾著「パウロの神学」を半分ほど読みました。1950年新教出版社発行で

すから70年も昔の本です。この本自体、だいぶ前に神田のキリスト教古書店「友愛書

房」で手に入れてしましたが読むのは初めてです。このところ大月新生教会で「パウロ

の手紙」をフィリピの信徒への手紙から始めてテモテへの手紙まで学んでいますが、そ

の間、メイチェン著「パウロ宗教の起源」1958年発行や、サンダース著「パウロ」

1994年発行を読み直してきました。来年はいよいよローマの信徒への手紙、コリン

トの信徒への手紙、ガラテヤの信徒への手紙とパウロの主著に取り掛かります。大月新

生教会の礼拝説教で話すのは困難を感じますが、しっかりこなしてから話したいと思い

ます。

 茅ヶ崎の学習会は午後4時からですが、午後3時には茅ヶ崎駅に到着しました。とこ

ろが会場が分からず40分も探し回りました。なぜか富士吉田教会の牧師も出席するは

ずでしたので道路に出て待っていたところ、無事到着しました。会場のライブハウスに

は主催者と同業の司法書士が4名と隣町の寒川町議(立県民主党)など10名ほどが集

まりました。講師の中村吉基先生はLGBT問題に取り組む牧師であり聖書科教師でし

た。平和学園のことも大月新生教会のことも私のことも知っていたのには驚きました。

会場に大きなスクリーンがあり、パワーポイント(投影機)で分かりやすい説明と毎年

開催されるレインボー行進や数多くのLGBTアピールの動画を見せてくれました。一

橋大学ロースクール(法学部)の25歳の男性の自殺、台湾の中学生のいじめによる変

死なども報告されました。大まかな統計ですが日本のLGBT(性的マイノリティー)

は3~9%いるようです。2014年に国際オリンピック委員会IOCは「オリンピッ

ク憲章」の中でLGBT(「性的指向」と表現)への差別を禁止して、2020年の東

京オリンピックから実施されます。それに賛成しないと公式なスポンサーになれないの

で、博報堂とか電通などの広告会社は(リッチなLGBT?の需要増加をねらってか)

賛同しているそうです。

 ? 山梨郡内ジャナル 最新号の内容 ?http://mitachi.life.coocan.jp

「上野原ラブリ通信」第901号 8月生まれの誕生会(テラスでバーベキュー)

「鶴嶋修道院便り」第144号 穂が出て来た田圃といのししに荒らされた溜池

「大月新生教会報」第449号 8/18 礼拝説教「神の憐れみに対する感謝」

「大月みんなの福祉あゆみ便り」第5号 小林浩太朗「共に生きる」その3



    *****

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