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***  9回目の農村伝道協議会に出席しました

 投稿者:井本克二  投稿日:2020年 2月26日(水)10時02分47秒
編集済
           *****  *****

 全国の皆さん、お早うございます。上野原は昨夜の雨で周囲はしっとりと濡れています。

一昨日から昨日まで、石和温泉のホテル石風(せきふう)で開催された東海教区第56回

農村伝道協議会に参加しました。私としては連続9回目の参加です。長野から16名、山

梨県から8名、静岡県から17名、東京から1名の合計42名の出席でした。内訳は牧師

13名、信徒29名です。この協議会はマニアが多く私もすっかり知り合いが多くなりま

した。主題は東海教区5か年連続テーマの4年目として「愛に励む教会」が掲げられ、長

野県北端の豪雪地帯にある小谷(おたり)村の車道もない山奥で20名ほどが自給生活す

るK学舎のMさんが講師として迎えられました。私は次のような話をしました。

    東海教区農村伝道協議会早天礼拝メッセージ  大月新生教会牧師 井本克二

マルコによる福音書4章26~29節を読みますと、ここには簡単ながら自然の営みへ

の素朴な感動をベースに、主イエス・キリストが神の国の不思議について語っています。

 「またイエスは言われた。神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼

寝起きしているうちに種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知ら

ない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな

実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

2012年から大月新生教会牧師となった私は、なぜかその年から山梨分区農伝担当教

職なり現在に至っています。東京では信徒伝道者として5年間、香港では日本人教会牧師

候補として4年間、神奈川ではキリスト教学校聖書科教師23年間と職場を変え、都会し

か知らない私がどうして農伝担当になったのか分かりませんが、そうなった以上、何か農

作業をしなければならないと考え、地元の老人クラブの仲間の話を盗み聞きしながら、お

決まりのじゃがいも畑から始めて、白菜、キャベツ、玉ねぎ、豌豆、ニンニクと植えてき

ました。そして5年前から米作りをしてみようと裏庭を開墾して小さな田圃を造成、子ど

もや孫に声をかけながら、毎年、田植えや稲刈りをしました。ささやかな経験ですが、主

イエスの「成長する種のたとえ」は私の実感です。

 けれどもやがてヘブライ人への手紙6章7~8節の次のような現実にも気がついていく

ようになります。「土地は、度々その上に降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ農作物

をもたらすなら神の祝福を受けます。しかし茨やあざみを生えさせると役に立たなくなり

やがて呪われ、ついには焼かれてしまいます」

17年前の2002年に定年退職して現在も住む上野原の山の中腹で生活を始めた当初

は、まだ大月新生教会には来ていなかってので暇だったということもあり、空き地や空き

家ばかりの山の中にあって、あちらこちらの他人の土地を無断で草を刈り、枝を払い、竹

藪を切り開いては、人生で初めて土と親しむ生活をするようになりました。やがて請われ

るままに10年間ほど地元の区長や民生委員となり地域活動に明け暮れしてる間に、周囲

は、藪やつる草で覆われていた以前とすっかり同じ状態になってしまいました。「何ごと

もありのままの自然がいい」と言う人がいますが、現実の自然は無秩序です。

 「農伝通信」最新号(第96号)で長野県のYさんが「2019年夏」と題する詩の中

で、「山に囲まれた標高800メートルのリンゴ畑も、気温は35度を超えた。こんな夏

は初めてだ。それでも雑草はのびる。刈っても刈っても、3週間もすれば膝の高さだ。山

からつる草が攻めてくる。隣りの廃園は背の高さの草でいっぱい。猪や熊のすみかだ。と

きおりフェンスを倒して畑を荒らす。夏は草との闘いだ」と語っています。田や畑を「自

然」と言えるかどうかは分かりませんが、山野をそのままにしておけば、殺伐とした風景

になってしまいます。

 私は地元の老人クラブ連合機関紙の編集員ですが、最新号に「森林、子育て」と題する

次のような随筆が寄せられました。執筆者のOさんは長年林業に携わってきた方ですが、

その中で「国は、材木を売るため効率よく1坪に1本の杉・桧の苗を植えるようにすすめ

た。その結果、真っ暗な山ができた。」と嘆いています。「杉やヒノキは高さ20メート

ルほどの大木でも、隣の木の根を越えて根を張ることはないので、根は直径2メートルほ

どにしか広がらないそうです。太陽の光が地面に届かないので下草が出ない。土砂を抱え

る力が弱いので集中豪雨で簡単に土砂崩れが起きる。ところがブナやケヤキなどの広葉樹

は、隣の木の根は無視して自分の高さと同じくらいに広く根を張り、下草や下層木がたく

さん生え、その木の実などは動物たちの食べ物となる。山は人間だけのものではないはず

だ」と書いています。

 さらに続けて思いがけない事実を語ります。「白神山地という東北地方の広大なブナの

原生林は自然にああなったのではない。江戸時代あるいはそれ以前から、マタギと呼ばれ

る山の人たちが炭を焼く時、大木は割ってから窯に入れないと良質の木炭ができないので

割りにくいブナはそのまま残した結果、広大なブナの原生林となった」というのです。

この頃、世界的に日本の里山が高い評価を得ていますが、里山も、江戸時代以来でしょう

か、こまめに手入れしてできた循環重視の植生と聞いています。私自身も10年ほど前、

地元の老人クラブの仲間数名に声をかけ、「さとやまサミット」銘打ち、裏山の登山道を

整備したり、コナラの木を切ってシイタケ栽培を試みたりしました。

 やがて農伝協議会に毎年出席しているうちに、数人の方々の発題、講演、説教が気にな

るようになりました。2015年のIさん(長野県)からは「いつまでも農業愛好グルー

プでいてはいけません。アンケートなどをとって問題の整理と解決の方向性を探ったらど

うでしょうか」との発題があり、また2016年の栃木県のアジア農業指導者養成専門学

の校長Aさんからは、講演の中で「日本にはもはや農村はありません」と言われたことが

私の心の棘のようになっていました。そしてふと、以前、平和という意味のシャロームと

いうヘブライ語には、豊作、安眠、無害、健康、安全、繁栄、非戦という7つの意味があ

ることを思い出しました。それはアジアキリスト教協議会1996年「アジア祈祷日」の

パンフレットの解説にありました。その内容は主にレビ記26章とエゼキエル書34章に

集中的に示されています。そこに方向性のヒントがあるのではないかと私は考え、そのよ

うなシャロームの豊かな(多角的な)意味をキーワードとして分野別の研究が可能である

と思いつきました。ぜひそのことを東海教区農伝専門委員会で検討していただきたいと思

います。

 さきほど歌った讃美歌372番「ひたいを落つる玉の汗」はミレーの名画「晩鐘」を思

わせる落ち着いた宗教的な田園風景を感じます。けれども、ある人から指摘されたことで

すが、藤本伝吉作詞(1930年)三宅宗太郎作曲(1931年)のその讃美歌ができた

のは満州事変(1931年)つまり日本軍の中国大陸侵略15年戦争が始まった時です。

その中で「平和の御代も近づきぬ」と歌われているのは、キリストが再臨して神の国(シ

ャローム)が完成する「終末の時」ではなく、天皇による「大東亜共栄圏」が念頭にあっ

たのでしょうか。そしてまもなく山梨都留教会(現在の大月新生教会)には教会解散命令

が出され、沼田うめの牧師は教団牧師籍を剥奪されたという歴史を想い起します。ですか

ら農伝協議会は単なる農業愛好会に留まるのではなく、聖書のシャロームの理念をベース

に、社会的、政治的、エコロジー的な視野に立って問題を理解し、発言できる協議会にな

るべきではないでしょうか。さらには、講演や発題を聞き討論するだけではなく、エジプ

トで苦しんだイスラエルの民が叫んだように、キリストにある小集団の一員である私たち

も、自分が信じる全能の神に「アメリカ、中国、インド、更には日本による横暴の手をと

どめてください」と激しく祈り求めることが必要ではないでしょうか。

    *****  *****


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***  山梨郡内ジャーナルの御案内

 投稿者:井本克二  投稿日:2020年 2月19日(水)15時54分24秒
         *****  *****

第265号  http://mitachi.life.coocan.jp  ← クリック

  上野原ラブリ通信 第927号 大沢在昌刑事小説「新宿鮫シリーズ」紹介

  修道院便り    第168号 冬枯れも終わり、もうじき春ですね

  大月新生教会報  第475号 田邉良三牧師「永遠の命を受け継ぐ」2/16

  平和をつくり出す人たち 第17号 ひとり暮らしを安心に

第264号

  上野原ラブリ通信 第926号 9年ぶりのグラウンド・ゴルフ

  大月新生教会報  第474号 「聖なる者とされた私たち」(2/9)

第263号

  上野原ラブリ通信 第925号 大沢在昌「暗約領域」

  鶴嶋修道院便り  第167号 ダン「使徒パウロの神学」

  大月新生教会報  第472号 「罪をあがなう唯一のいけにえ」

  平和をつくり出す人たち 第15号 野菜をありがとう



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***  もうじき春ですね

 投稿者:井本克二  投稿日:2020年 2月18日(火)10時14分31秒
編集済
       *****  *****

 全国の皆さん、お早うございます。上野原は春の日差しで当たり一面、輝いています。

昨日は庭の柿の木と梅の木の枝の剪定を2時間ほどしました。先週に続いて2度目で、日

を浴びての作業は楽しいものです。とはいえ、木から落ちては大変ですのでヘルメットを

着用しています。午前中、突然、地元の旅行社から電話があり、5月の上野原市老連所属

島田桂生会の一泊旅行のプランが出来たとのことでやって来ました。私は5年間、会計を

してきましたが、今年から何と私が会長に推薦されました。折り良く前会長が自宅前を通

りかかったので同席してもらいました。房総半島一周の3つの旅行計画を3月の第1回理

事会に提出して実施する予定です。

 2月16日(日)午前中は山梨分区所属の16教会の牧師が一斉に他教会で礼拝説教を

担当しました。大月新生教会には石和教会牧師が担当してくださりルカによる福音書10

章から「永遠の命を受け継ぐ」と題して熱のこもるメッセージをしてくださいました。そ

の礼拝案内のはがきを40通発送しましたが、教会員の知的障害者4名は社会福祉協議会

のイベントがあり欠席だったので礼拝出席者は8名でした。けれどもその中には近くの理

容業の姉妹がおり4年ぶりの出席で、また大芳飯店の店主も出席してくれました。

 私は笛吹市の山梨八代教会の礼拝説教「神の言葉の変奏曲」詩編第119編を担当しま

した。出席者は13名で、その中には教会役員で山梨ライフサポート理事長が3人の兄弟

を誘ってきました。いつも兄が支援している方々です。礼拝後30分ほど婦人会の方々と

一緒のお茶の時間で、8人がにぎやかなひと時を過ごしました。

 帰りは大月で途中下車して大月新生教会に立ち寄ったところ、妻が指導するどんぐり牧

場の知的障害者対象の習字教室の最中でした。役員4人も同席していました。この日はど

ちらの教会にも実りの多い日でありました。

 今日は午後から甲府の愛宕町教会で開催される有志牧師の神学研究会に出席します。今

週の木曜は自然学園高校1年生クラスと2年生クラスの聖書科の授業があります。高校3

年生の授業は一足早く終了しており先週、期末試験が終っています。

 金曜はまた島田桂生会のグラウンド・ゴルフに参加します。副会長と会計に5月の旅行

計画書を渡さなければなりません。来週は2月24~25日(月~火)石和温泉のホテル

石風で開催される東海教区農村伝道協議会に出席します。茅ヶ崎の平和学園高校の元同僚、

鎌倉雪の下教会員も同行し、LGBT問題と取り組む松本の婦人牧師に紹介します。

 もうじき春です。田圃や畑の作業が待っています。皆さんの上に主イエス・キリストの

恵みが豊かにありますように祈ります。

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梶原さんの件

 投稿者:飯田  投稿日:2020年 2月10日(月)00時22分57秒
  梶原さんの件、了解しました。
 

***  梶原さんのこと

 投稿者:井本克二  投稿日:2020年 2月 9日(日)08時12分50秒
      *****  *****

 先週の木曜午後、梶原さん宅を訪問しましたが、私が持参した週報などの印刷物も

読む気がしないそうです。とはいえ、夕陽を見ながら屋外で1時間ほどおしゃべりを

したあと、頼んだわけではありませんが、車で上野原の自宅まで送ってくれました。

妻も会いたがっていましたが、会う気力がないとのことで、そのまますぐ帰ってしま

いました。以前、メールも送信しましたが返事はなくネットは見ていないようです。

これからも時々訪問するつもりです。

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梶原さんはここを読まれてるのかな?

 投稿者:飯田  投稿日:2020年 2月 8日(土)20時43分29秒
  梶原さんは、ニュースなどに出る、災害に遭われた方や、悪く無いのに災害や暴漢によって被害に遭われた方や亡くなられた方がいることに納得がいかない思いを抱くようなやさしい方でしたよね。

その悪い事をしていない方が先日も横浜の磯子で土砂が崩れてきて18歳の女子高生が亡くなられました。

しかし、この方が亡くなられたことで調査が始まり、対策がとられようとしています。
もし、この亡くなられたのが、世の中の嫌われ者であったなら、みんな「ざまあみろ!」と、今回の事故について理不尽さをあまり感じなかったかもしれません。
悪く無い方が亡くなられたからこそ、人々はその理不尽さを強く感じ、「このようなことはあってはならない」と、強く正義を願うのです。
今回のことで調査が進まなければ、やがてもっと多くの人の命を奪ったことでしょう。
また、今回の事故がなければこの場所の調査は始められることはなかったでしょう。
人々は犠牲があってはじめて正義を求めるのです。

さて、今回の事件のような事で理不尽に感じるなら、そこで忘れては成らないことがあります。
今回の事故はその土地の所有者、権利者、管理者が注意すべきことだったのかもしれません。罪・・責任はその権利者だけでなく、ムキ出しの土の傾斜が60度もあったことから、あるていど知識者なら危険を感じれたのではないでしょうか。

罪の無い通行人が亡くなられた・・・
ここで思い出してもらいたいのは、私達の無責任な罪のため、汚れの無かった人が死んだのです。そう。イエス・キリストです。 私達の罪を私達が自覚せず、それでいてイエス様を私達が殺したのです。

今、世の中にある理不尽な被害。これらもすべて神の御手のうちです。
災害がなければ気がつかずに、私達は注意することを忘れ、悪化させてしまう民なのです。
「みんなから慕われていた人が理不尽に亡くなった」。それで憤りを感じるなら、それ以前に私達の罪をみんな背負い死なれたイエス様に対してどうして無関心でいられるのでしょう。
それこそが、今回の事故原因を見逃した人々と私達が同じ罪人であることの証です。


聖書ではこの世の次に来る世を記してあります。
次は死のない世界。
今の世で死が無かったらどうなりますか?
虐待されているものは、それが永遠に続くのです。
旧約の時代にはヨベルの年がありました。
全ての負債が帳消しになる年。
今の私達の時代にはそれがありません。
負債を負えば、それが自分の収入を超えていたら、死ぬまで逃れられないのです。
夫婦も相手が亡くなられたらその束縛から解放されることが示されていますが、死がなければずっと続きます。

今の世の中で永遠の命が与えられたら、多くの人が永遠の苦しみに置かれることになります。
今の世の中の悪い所は、「他の人より優遇されたい」「他の人より偉くなりたい」という欲が、他人を迫害し、虐待される人が無くならない原因なのです。

ですから、イエス様は、究極的にそれらの原因を無くす方法を示されました。
「隣人を自分のように愛すること。敵の為に祈る事。偉くなりたい者は仕える者となること。天の父を第一とすること(これが無いと自分を第一にしてしまう)。」


世の中の災害は、天の父への感謝を忘れたために起こっています。
平安である日は実は神様が護ってくれていたから平安だったのです。
神様が護ってくれなければ、土砂崩れなどもっと起こっていてもおかしくないでしょう。

世の中の悲しい事件、虐待など、また、他に生活で追いつめられた人々。
これらは主の教えが、ちゃんと行いをもって広まれば(言葉上だけでは無くという意味)なくなっていくものですし、旧約聖書にもありますが屋上には手すりを付けなかったものが転落事故があったときの罪人であるように、危険に対して知恵をもちいて防護することも聖書にあります。


事故や災害、理不尽な迫害・虐待に憤りを感じるなら、それらすべてを無くし平安の道を示してくれたイエス様に従わなくてどうして他人事のように文句を言えるのか。
イエスさまはそういう理不尽をなくすために「すべての人を私の弟子としなさい」と使徒に命じられたのです。

私達が一つ身体となれば、迫害・理不尽は存在するはずもありません。
その手法が示されて居るのに、イエス様の弟子になることを拒むなら、他にどのような方法で解決できると言うのか・・・

今回の土砂崩れで亡くなられた女学生も、私達が無関心の故に犠牲になったのです。
ある意味、私達のために犠牲になられた。


犠牲が発生しなければ、これらの事を考えようともしない私達の罪故(つみ ゆえ)に、犠牲となる者が必要となってしまう。
これはイエス様が犠牲になられた事の再現のようなものです。
これでもイエス様に弟子入りしないなら、その者は口先だけで自分の罪を認めず、ただ他人を批判しているだけです。

マタイ
23:30 そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。
23:31 こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。

口先だけでイエス様につかないものは、上記の部分と同じで「自分はそんなことはない」とその事件とは無関係をいいながら、批判だけは口を突っ込んでくる愚か者です。


さて、それではその犠牲になってしまわれた方はあまりにも・・・
という思いがあるでしょうけれども、聖書にはこの世の次にくる世を示しています。
死もなく、涙の無い世界。
今回の犠牲になられた方などは、苦しく感じる前にイエス様の下に引き寄せられていると思います。
そしてそのまま死もなく、涙の無いところへ。

そこへ入れるのは、「人より良い思いがしたい」という者は入れないのは当然です。
そういう者がはいってしまえば、そこも、今のこの世と同じになってしまいます。



今、この世で起こり、私達の耳に入る悲しいできごと。これらは、私達がそれにより理不尽という悪を心底から嫌い離れ、正しい道に立ち返ることができるようになるために起こらざるを得ないこと。
こういう事故・事件が無くなるように願うなら、全身全霊をもって主に立ち返ることが必要。

逆から言えば、主に立ち返らない愚かな人々のために、それらの人が考えを改め救われる糧としてこのような悲しい出来事が起こされているということ。



極論。「なんでこんなに悲しい出来事が起こるのか。」それは「主に立ち返ることを忘れ、自分を一番とする愚かな考えを持つ人々を救うため」
 

梶原さん、懐かしいですね。

 投稿者:飯田  投稿日:2020年 2月 7日(金)23時14分12秒
  梶原さん、懐かしいですね。
あの時はまだ洗礼をうけていなかったと思いますが、結局、受けられたのかどうか・・

>いろいろ自分のことで悩むことや、世の中に納得できないことが多いようでしたが、


悩むことや納得できないこと・・ 自分でどうにもできないことがあれば、それは「主の招き」なのですけれどもね。。。

自分ではどうしようもないから主に縋るしか無い。

自分でなんとかしようとするから自分の無力さを思い知らされ落ちこむ。

主に委ねれば、自分で悩む必要は無く、重荷は軽く成るのですけれども・・

主に委ねて、そして目の前に差し出された事象は、すべて受け容れるようにしてみる。
目の前に差し出された事象は主が示された道であり、「面倒」とかよけいなことを考えずに、目の前に差し出されたことは、理由を考えずにこなしていくと、それが解決の道てあったことが後で分かったりして、主のすばらしさをますます感じられます。

悩むのは主に委ねていないからですね。
主に委ねる生活を始めると、喜びを知ることが多くなるのですが・・
 

梁川の梶原裕正宅を訪問しました

 投稿者:井本克二  投稿日:2020年 2月 7日(金)06時54分7秒
       *****  *****

 全国の皆さん、お早うございます。上野原は今季最低気温の氷点下6度となりました。

昨日は大月市梁川の自然学園高校の授業の後、足を延ばして近くの梶原裕正宅を訪問しま

した。幸いにも在宅中で、山と山の間に沈む太陽の光を浴びながら、戸外でしたが1時間

ほど話し合いました。いろいろ自分のことで悩むことや、世の中に納得できないことが多

いようでしたが、そのおり横浜の飯田兄や四方津の久島兄の話も出ました。

 私は今日の午前中に、何年ぶりかで島田桂生会のグラウンド・ゴルフの練習に行くつも

りです。上野原のグラウンド・ゴルフは10年ほど前、私が島田野球場の芝生が気にいっ

て島田東区いきいきサロンのプログラムにしたところから始まりましたが、その後の世話

役の工夫と努力で大発展して、最近では山梨県大会「ねんりんピック」で個人準優勝者を

出すまでになりました。

 私自身は大月新生教会の仕事などで忙しくなり、だいぶ前から行かなくなりましたが、

自転車で野球場の近くを通りかかるたびに、十数名がグラウンド・ゴルフを楽しんでいる

姿を見て喜んでいました。これからは私も時々参加することにしました。腕前は、当初か

ら下手で、世話役でしたから自分のプレーに専念できなかったこともありますが、老人ク

ラブ仲間は、元々ゴルフをしているので、練習熱心さも加わりグラウンド・ゴルフもすぐ

上達しました。これから私の腕前が追いつけるわけもありませんが、仲間入りします。

これからまだまだ寒い日が続き、ウィルスや花粉が飛び交うと思いますが、予防に努力し

ながら健康に気をつけてください。それでは今日も一日、皆さんの上に主イエス・キリス

トの恵みが豊かにありますように祈ります。

    *****

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今日入って来た言葉

 投稿者:飯田  投稿日:2020年 2月 6日(木)22時18分37秒
  今日、私の中に入って来た言葉。

「汚れ無きこと幼子のように。
   分別と行(おこな)いは大人であれ。」

みたいな事でした。



「幼子のように・・」の「~のように」は、「幼子になれ」と言っているのではなく、例としてマタイの福音書

10:16 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。

上記は「蛇になれ」とか「鳩になれ」と言っているのではないことは分かります。
これに当てはめると「幼子のように純真であれ」という意味であると取れます。
蛇になれ、鳩になれと捉えたら、蛇と鳩では違いすぎて「矛盾」となりますね。
 

心と知恵

 投稿者:飯田  投稿日:2020年 2月 5日(水)20時54分44秒
編集済
  >福音書のいうように「幼子のようになることが大切」なのか、

>パウロなどの手紙のように「いつまでも幼子であってはいけないのか」があります。

主の御前では、心は幼子のように素直であるべきだと思います。
ただ、知恵と行動は「幼子のままではいけない」と思います。
パウロが言ったのは、主の叱責を「素直に受けない」人々へで、聖書の解釈も人に有利な身勝手な解釈をしている人々へであって、サタンの「甘い言葉」の誘惑に対しては「幼子のままではいけない」と言っていると聖書からは受け取りましたが?

幼子についてですが、「幼子のように」とは、「悪い心が無く」の「純真」意味です。
パウロが言った方々は、神様のことよりも自分たちのことばかり考える「悪知恵」の入ってしまった方々へであり、違いがあります。
一旦、悪い遊びを覚えてしまった若者に対しては、私達も同じように言わないでしょうか?
「大人になりなさい」と。
素直に言われた通りに育っている子どもに対して「大人になりなさい」とは普通は言いません。そのままで育っていってもらいたいからです。


また、イエス様が「幼子のように」と言われた対象は「弟子達」であり、(霊的な)身内にです。
バウロが言った相手は異邦人に対してであり、まだ霊をうけていない人達「求道者」に向けて言っていると思いますが・・



整理すると、「立ち返った者」に対しては「幼子のように素直に(天の父の言葉を受け容れなさい)」と言っており、
まだ、自身を主体として、天の父をその後にしているような者には「幼子のように無知であってはいけません。肉に属する者には善は無く善は父のみであるということを早く理解しなさい。」というような意味合いで言われていると感じます。

言っている対象の信仰のランクが違うので、違う言い方になるのは当然だと思います。
主を知った者は、主の前で頑なになる必要はないことはみなさん分かる通りです。
主の前では幼子のように。
主をまだ知らない者は、無知故に主を知り得ないのですから、「大人になって主を知りなさい」ですよね。

これは、「(主によって)くだかれた者」と、「まだ(主によって)砕かれていない者」という言い方もできるのではないでしょうか。


「幼子のように」の「ように」とついているのは、「心」に対してであり、
「幼子のままではいけない」と言われているのは「無知であってはいけない」の意味の方であり、弟子達は「霊」の方が主体であるのを理解した者達であり、だからこそ「心」の方をさしているのは分かるハズです。
肉体を主としている者達は「幼子」とは「無知」であることを指すと受け取ると思います。

「私を愛しているか」と3度聞かれた時、「愛している」の言葉の表面だけの意味で捉えたら意味が解らないままですね。
「愛」は日本語でもヘブルでも一つですが、ギリシア語は、「アガペー」と「エロス」と「フィエロー」の表記の違いがあるから新約では説明できましたが、言葉だけで聞いていたら「ただの同じ事を3度言った」としか理解できません。

聖書では、同じ言葉でも違うものを指すのは、根本部分からそのようになっているはずですが・・
世で言う「光」と「命」と「食べ物」と「言」と、信者の理解する(受け取る)「光」と「命」と「食べ物」と「言」は言葉上では同じですが、意味は違います。


世に属する人は「聖書には矛盾することが書いてある」と言いますし、信仰のある人は「矛盾は無い」と言います。聖書は主の言葉であり、聖書の方が正しいのですから、「矛盾がある」と言う人はどこか意味を勘違いして捉えているということになります。

>シンプルになりさいとは言いづらいところがあります。

「素直」と「シンプル」は違いますよ。
年が行くと、余計な知恵があるので、すべてを受け容れるには一つ一つ納得していかねばなりませんが、「素直」に受け取れば、時間は掛かっても最終的には「納得」に行き着きます。しかし、素直にならず、「自分の考えの方が正しい」と思う者は、「素直」には聞き入れないので、一つづつ、または一気に「くだかれ」ないと、聞き入れ(受け容れ)ません。
幼子のように素直であれば、「くだかれる」必要はないのです。
シンプルの方が立ち返りはカンタンですが、急ぐ必要は無いのです。ただ「素直」になって、ひとつひとつ受け容れていければ・・
知識の多い博士でも素直な人はいるでしょう?
シンプルと素直とは全然違います。


どうして聞き入れられないのか、それは「自分が一番」と思っているからで、そういう考えは「子ども」ですね。自分が見えていない・・ だからそういう人達は「大人」になる必要があるのでしょうね。
 

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