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中坊公平氏の弁護士廃業に思う(下)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年10月10日(金)23時39分56秒
   このように、言うなれば中坊公平氏の仕事は、目的のためには手段を選ばないという手法である。
 今回、東京地検特捜部に事情聴取された大阪の不動産に関する事件も、報道される限りでは全くの詐欺事件であったとしか言いようがなく、やはり目的のためには手段を撰ばないやりかたである。
 詐欺の被害にあったのは横浜銀行など金融機関である。つまり多少の詐欺にあってもお金には困らない存在である。
 中坊公平氏は、国民の税負担を減らすためには債権回収に励みたかった、という趣旨を述懐しているらしいが、これでは江戸時代の義賊の発想でしかない(もっとも私は、過去にもそうした発想に基づくと思われる事件があったと考えている。)。

 義賊を時代の英雄とみる立場もあるかもしれない。しかし、私はそういう立場は取らない。
 正々堂々。真実の事実。
 これが、普遍の常識の基礎ではないだろうか。
 正々堂々としていて、それで敗れるならそれも良し、である。それが法律の世界ではないか。
 真実の事実が曲げられるなら、その社会はたいした社会ではない。そういう社会は正さなければならない。かといって、これを元に戻すために無理に犯罪を重ねることはないのである。何故なら、そうすることは普遍の常識に反するのだから。
 ましてや、犯罪者は人に迷惑を掛けるものだ。そういうものには金輪際なりたくない。
 犯罪者になるくらいなら、そのときは名は捨てるし、財産も、命も惜しくない。

 しかし、中坊公平氏は語っている。
 「私にとっては、命も弁護士資格もどっちも大事だ。しかしどちらかを捨てなければならないとしたら弁護士を捨てざるを得ない。」と。
 残念ながら、私はこの言葉に共感を覚えない。誰も「どちらかを捨てろ」とは言っていないからである。
 そしてまた弁護士は犯罪者であってはならないのである。したがって中坊公平氏が東京地検の事情聴取を受けて犯罪の嫌疑を自覚するのなら、弁護士を廃業するのは至極当然である。
 もっとも、大阪弁護士会は退会を認めないと言うから、これはまた悲劇である。

 

大衆迎合政治への風潮を打破せよ(1)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 9月21日(日)16時18分9秒
   小泉首相が自民党総裁として再選された様子をテレビ中継で見ていた。そしてま
た、記者会見での小泉首相の発言も見ていた。
 そこで思ったのが、政治が「ボス支配から大衆迎合へ」と変わりつつあるのでは
ないかという懸念である。
 戦後の自民党政治は、派閥連合による政治であり、派閥のボス支配がまかり通っ
ていた。その典型的な形が田中角栄首相や竹下首相の時代であったと思う。

    こういう風潮は別に保守政治家の世界に限らず、いわゆる革新陣営といわ
   れたところでもあったし、その他の分野でもみられた。もしも話題を広げよ
   うとするならば、「いわゆるボスは各界で未だに健在で息づいているところ
   が多い」、と言いたいところである。しかし、そうすると、その例として挙
   げる「各界」から「ボス」と「リーダー」とは違うと言われそうだから話題
   を広げるのはやめておこう。

 いろいろな報道からみて、今回、小泉首相が再選されたのは、来月にも予定され
ている総選挙や来年の参院選挙において、自民党関係者が自民党の顔として小泉首
相を据えておくのが無難だという理由で選択したのだと思う。
 これは、堀内派、河野グループなど人材を有する派閥が立候補を見送ったり、橋
本派が小泉支持と藤井支持の二つに割れたりした経緯をみると、そうとしか考えら
れない。
 「小泉に総理総裁をやらせておくと人事でも政策でも思うようにはゆかないので
支障は数々ある。しかし小泉以外の者を党首として選挙を戦って政権を失うことに
比べれば、第一に自らの議員生命を失うし、それ以外でも、政権を失うことの損失
は計り知れない。それなら、まだまだ国民的な気のある小泉を党首としておき、
彼に任せておいたほうがはるかにましである。人事・政策はいろいろな手練手管を
使って抑制するようにすれば、100%は無理として、もかなりの部分は何とかな
る。」 
 これが多くの自民党員の本音であろうと思う。



 

大衆迎合政治への風潮を打破せよ(2)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 9月21日(日)16時17分13秒
   一方の小泉首相はどうか?
 首相も、今回の総裁選挙では前回の様に「自民党をぶっ壊す」というような勇ま
しい発言はないし、他の3人の対立候補者やマスメディアから批判されたように具
体的な政策の提起はなかった。
 だから、どちらかというと「自分しか自民党の顔になる者はいないではないか!」
という自信と、「自分を自民党の顔として利用するなら神輿に乗ってやる。しかし
思ったことは貫くぞ!」という屈折した気持ちとが入り混じったような気分ではな
いかと思う。
 首相は「人事のことを考えると憂鬱だ。」という言い方をしていた。これは、幹
事長人事や竹中大臣の処遇問題について厳しく対応を迫られていることに反応して
いる言葉だと思われるが、この言葉は、「利用される者」が逆にその独自性を発揮
することの難しさを吐露したものと思われる。
 幸い、今日の3役人事では、若い安倍晋三氏を新幹事長として起用するという新
機軸を打ち出したので、「利用される者」が逆にその独自性を発揮したことになり
そうであり。この点では敬意を表したい。

 しかし、こうした自民党総裁選の結果が何を齎すかと言うと、それは政党として
の主義主張を失った、党派性の喪失ではないだろうか?
 また、同じようなことは野党にもあり、10月はじめに予定されている民主党と
自由党の政策的にすり合わせのない、総選挙を意識しただけの無条件合併話も、こ
の(政党としての独自性の喪失の)延長線上にあるのではないかと思う。

 どうしてこうした現象が起こっているかと言うと、いうまでもなく政治に対する
無関心層が増大しているため、この無関心層をひきつけるためには、個々の政策よ
りも、政治家のキャラクターや、「政治の転換」などというキャッチフレーズが必
要だからである。
 ここでは、どうすれば信頼のできる年金政策が樹立できるかとか、消費税をいつ
・幾ら値上げすれば財政再建が可能になるとかいうことは抜きになっている。
 要すれば、大衆迎合主義が台頭しているというのが最近の政治の大きな流れだと
思うのである。

 しかし、政治のボス支配は政治の私物化であるから危険であり、排されるべきも
のであることは当然である。
 同時に、大衆迎合主義も政治の事勿れ主義を助長し、結局のところは国を危うく
するもので、こうした傾向が生まれるのは危険である。
 特に、再選された小泉首相に望みたいことは、政策や政治の動きを単純な言葉で
割り切ったり、切って捨てるようなことはして欲しくないと言うことである。
 今までの道は、こういう首相の姿勢が人気を得る道であったかもしれない。しか
し、それはすでに大衆迎合政治のために使われる道具となりかねない。やはり、国
民に信頼される政治家としては、丁寧な説明や細やかなリーダーシップを発揮して
欲しいと思う。
 そして、それが、政治を政治らしくしてゆく道だと思う。
 

高見盛への忠告(上)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 9月14日(日)14時41分30秒
   最近の大相撲は貴乃花、武蔵丸という大型力士がいないので少し寂しくなったかと思うが、これに加えて、このところのスポーツ面をみると気になることがある。
それは高見盛という力士のパフォーマンスをめぐる話題である。
 今日のスポーツ面では、昨日高見盛と対戦して敗れた闘牙が高見盛のパフォーマンスについてコメントしていた。
 「相手によって力の入れ方が違う。おれには横綱戦の6割くらいだよ。」(朝日新聞)
これが彼のコメントである。
 おや、と思ってほかの記事を読むと、このところ独特の「気合入れパフォーマンス」で人気沸騰の高見盛が、昨日はどうも例のパフォーマンスを抑え気味にしたらしい。
 闘牙のコメントはそのことへの自嘲的な批判の様に聞こえる。
 因みに、闘牙に勝った高見盛のコメントは、
(気合注入を地味にしたことについては)「いろいろ言われて」。
(客が喜ぶからやれば、の問いにも)「そういうわけにも」と困り顔、
とある(上記と同様、朝日新聞から)。
 
 そういえば、高見盛は今場所、場合によっては「綱とり」のチャンスもあった魁皇に勝ち、更に翌日には、今まで勝ったことのない栃東にも勝って大関を二人も破った。
 だから、当然人気も上がると思ったのだが、思いついて購読している新聞をひっくり返してみたら、結構批判的な記事がある。例えば、高見盛が魁皇に勝った翌日の朝日新聞と日本経済新聞とでは大きな開きがあった。
 朝日新聞は、魁皇を破った高見盛の相撲を「精進の賜物」ととらえて好意的に紹介していた。
 一方の日本経済新聞は、魁皇が、高見盛の相撲に対する心構えについてもともと我慢のならない感情を抱いていて、それが安易な取り口の相撲をとることに繋がったため敗れた、という趣旨の解説をしている。そして、記事の文面では書いていないものの、高見盛のパフォーマンスが大袈裟だという批判をこめているように感じられた。
 

高見盛への忠告(下)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 9月14日(日)14時40分4秒
   このことについて他紙なども参照して考えると、高見盛は「本場所で勝つことが重要であり、練習はそのためのもの」と位置付けているらしい。
 そのためか、高見盛は場所前の出稽古に出向くと、わざわざ他の部屋の力士の胸を借りているのに全力を尽くすことなく、いつもあっさりと土俵を割ってしまっていて、これが練習への熱心さが足りないとしてみられ、「出稽古に来る力士としては失礼な奴だ。」とみられているようだ。
 魁皇は、特に高見盛の本場所土俵以外のこういう態度を快く思っていないらしく、それで先日の対戦の際には立会いから感情的になっていたものらしい。しかも、こういう振る舞いは巡業でもみられるという。
 また、高見盛自身がそんなに自信家ではないようで、部屋のものには、場所中の「次の日の相手は自分には知らせるな。」ということにしており、記者との会見の際にも、これはタブーにしている。理由は、次の日の相手が分ると、その対策でその晩は寝られないからだという。
 そうやって、当日相手を知ってから、土俵上では自分自身に活を入れるために、「気合いいれ」としてあのようなパフォーマンスをとるのだが、これはお客さんには喜ばれても、どうも他の力士からは顰蹙をかっているようである。

 相撲にもいろいろあり、人にもいろいろある。ましてや人の生き様というのは余人には窺い知ることのできない事情によって変わるものであるから、高見盛のこうした態度を彼の心の内外を知らぬままに勝手な憶測でどうこうと決め付けることはできない。
 反対に、人生という少しレベルの高いものに比べれば、大相撲という特別な社会のことはその社会の中でいろいろな価値判断があるものだろうから、魁皇の感情の持ち方を一概に否定することもできない。
 
 しかし、大相撲の客又はファンとして何か言うことができるとすれば、その一人である私なら、高見盛のパフォーマンスは彼が強くなるまでの一時的な過程の中のことなのか、それとも彼が目指すであろう横綱になっても変わることない行動なのか、そのどちらなのか考えて欲しい、と言いたい。
 高見盛の本当の気持ちは、実は気も弱いし、実力もない一青年に過ぎない、と思っているかもしれない。
 しかし、自分の前歴を振り返ってみれば、大学時代には学生横綱にもなった男だし、職業力士になった今では大関も連覇できる力も備わった力士なのである。このことは誰も否定できないし、ここから自分でもファンでも、新しい期待や希望が生まれることもまた間違いのないことなのである。
 そうすると、これらの希望や期待は、今のような客の喜ぶパフォーマンスだけではなく、大相撲の目指す心・技・体の調和の取れた力士への変貌に変わって行くのであり、そうなることが高見盛自身の力士の目標にもなるのである。

 こんなことを考えると、高見盛は周囲の話しにも耳を傾け、改めるべきことがあれば早急に取り組んだほうが良いのではなかろうか。
 仮にそうすることによって番付が下がることがあっても、それもまた修行なのではないかと思う。
 

朝のタクシー争奪戦

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 8月22日(金)22時10分57秒
   今朝は、急ぐ予定があったので、タクシーを使おうと思って自宅をでました。
 私の自宅前は、一応バス通りで車の交通量が少なくないのですが、でも環七
(「環状7号線」という都区内の幹線道路のこと)の裏道に当たるせいか、あ
んまり急場のタクシーはつかまらないところです。
 でも、付近は閑静な住宅やマンションの多いところですから、人の通りも相
応にあり、しかもバスの本数は少ないので、この人たちとの間で時々静かなタ
クシー争奪戦があります。
 簡単に言えば、バス停留所の近くに、信号のある小さな四つ角があり、ここ
が空きタクシーを比較的捕まえやすいのです。でも、ここに二組以上の客がい
ると、競合を避けて早く空きタクシーを捕まえるには、少しでも車の流れの元
の方に遡るのです。誰も「タクシーを捕まえるため」とは公言して移動するの
ではありませんが、実際の姿は「タクシー争奪戦」です。

 ところで、急ぐ用事のあった私は、バスの来る時間でもないので、そのスポ
ットまで行ってみました。ところが既に先客として一組の若い夫婦がいました。
 こういう場合は、この二人よりも少しでも車の流れの元の方に遡らないと後
塵を拝することになります。
 それに、若い夫婦がいる場所は、別にタクシー乗り場でもないので、格別道義
に悖る訳でもありません。

 そこで、彼の夫婦から30メートルばかり離れた場所に遡ってタクシーを待っ
たのですが、今日はそれでも空きタクシーはなかなか来ません。随分とトラッ
クや自家用車は通るのですけど。。。。前方を見ると、若夫婦もいらいらして
いるようで、体を伸ばしたり、反対側をみたりして落ち着きません。

 でも、この車線に、遂に一台の空タクシーが現れました。そして、交差点の
停止信号がちょうど赤になって、私のまん前で停まったのです。
「やれ、良かった!」と思って車道に足を下ろしかけたのですが、でも、なん
だかこのままタクシーに乗り込むのはとても心が痛みました。

 そこで、瞬間の判断ですが、、乗るのは思いとどまり、また歩道に戻りまし
た。運転手は期待を裏切られたような、怪訝な面持ちをしているのですが、私
は知らぬふりを決め込んで、また、更に車がこのタクシーの後ろに押しかけて
きて並ぶのをみていました。

 すると、なんたる奇跡、、、その一番後ろの方にもう一台の空きタクシーが
追いついたところでした。
 私は、停まっている車列と、歩道の端にあるガードレールの間を小走りに走
ってその後ろのタクシーに乗り込みました。
 そのとき、丁度信号が青信号に変わったのでしょう、タクシーは走り出しま
した。歩道の側を見ると、私の乗ったタクシーは前に停まっていたタクシーを
追い越すところで、そのタクシーには例の若夫婦が乗り込むところでした。

 こうしてみると今朝のタクシー奪い合いは、これがもしゲームであるなら、
温情で勝ちを譲った私は間違っているのでしょうが、でも、ゲームではないで
すからね。
 

颯爽たるイメージの君(1)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 6月 7日(土)06時10分31秒
  (1)
 二三日前のある新聞の投書欄に、72歳の女性の方の投書が載っていたのをまだ覚えています。
 タイトルが「文通相手思い・憧れ抱き続け」とあるので、いつも早合点の私は、相手の方は男性だろうと思って読み始めました。
 でも、やはりいつものとおりの早合点であって、その中身は私が予想したものとは随分違いました。

 相手の方も女性で現在80歳。よく新聞の生活欄に投稿なさる方だそうで、72歳の女性はかなり以前からその文章のうまさに感服していたとのことです。そして、どういうわけか、彼女はその80歳の彼女を「スラリと長身で襟足の綺麗な和服の似合う女性」と描いてしまっていました。
 そうこうしている間に時が流れ、72歳の女性が投稿したことがきっかけで二人の文通が始まり、時には電話で会話するなどして今日に至っています。
 二人は、文通の中でお互いに相手方に抱いているイメージを語り、その現実との違いにお互いに大笑いしあったのですが、その「反省」から、お互いに絶対に会わないで文通を続けようと決めていました。

 ところが先日72歳の女性が電話したところ、82歳の女性は大たい骨骨折で入院中でした。電話した彼女は一瞬迷ったのかどうかは分りません。また、お二人のお住まいの距離的な関係も分りません。投書には、彼女は「しかし、敢えて見舞いに行くことはしないことにした。」と書かれています。
 そこには、「たとえ車椅子や杖が離せなくなっても、私の中で彼女はいつも背筋を伸ばし、軽い裾さばきで歩いています。」とありました。

 読み終えて、私は、これも一つの考え方だなあと、と感じました。
それと同時に、しかしこの考えを、長年ネットの主宰者として過ごしてきた私はどう考えるべきなのかなあ、と少し思い悩んでもしまいました。
 今日は、この二つの相矛盾する気持ちを整理してみようと思います。

 ただ、その前にちょっとだけ整理して置くべきことがあります。
 それは72歳の投書された女性の方がどういうつもりで「敢えて見舞いに行かないことにした。」と強調したのかということです。
 この整理として自分の考え方を予め明らかにしておきますと、私は「見舞いのために会いに行く。」(=見舞いする)ということと、「見舞い心を持つ」(=見舞いしたい気持ちは強く持つ。」ということは別のことなのではないかなと思っています。
 「見舞いのために会いに行く。」というのは、見舞い心から生まれた実際的な行動レベルの話しです。この実際的な行動としては、会いに行くことだけではなく、お見舞いの花を送る、手紙を書く、その他いろいろのことがあるのだし、またしようと思えばできることだと思います。そういう具合に、見舞いに行くことと見舞い心を持つのは別のことだと思います。
 ですから、72歳の女性の方は、別に見舞い心がないのではありません。見舞い心はあるのだけれども、80歳の相手方の女性の病気姿をみて、彼女が抱いていたイメージを壊したくない、そういう気持ちのことを強調した投書だ、と、このように整理しておきたいと思います。
 

颯爽たるイメージの君(2)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 6月 7日(土)06時09分24秒
  (2)
 さて、それでは私の相矛盾する気持ちを整理してみたいと思います。
 まず、投書を読み終えて最初に感じたのは「これも一つの考え方だなあ。」ということでした。「実際に会って、その途端に自分が作り上げてきたイメージが壊されたら、それは嫌だよなあ。」と思いました、
 この社会は、一人だけで生きて行くことはできず、なにがしか人と人との関わりがあって、はじめて自分の存在もまた意味のあるものになると思います。そのことは幸齢世代の方は肌身に沁みて感じていると思いますし、またこの世代の多くの方にご同意いただけると思います。
 しかしまた、現代のように情報化社会といわれる時代にあっては、人と人との交わり方は決して一様ではありません。また、一般には(これは「独居老人などでない限り」という意味のつもりです。)、ともかく自分のすぐ隣に生身の人間がいなければどうにもならないくらい困るという、そういう関係の社会ではありません。
 こういう中で次第に大事になりつつあるのは、人と人との間の精神的なつながり、精神的な絆というものであるように思います。
 そして、その精神的なつながりの中核が何かというと、親子、夫婦、兄弟とかの血縁的な関係を別にすれば、それは相手方に対する信頼感や安心感であり、もっと抽象的にいえば憧憬であり、平たく言えばいろいろな情報から一方的に形成される(あるいは勝手に形成する)イメージなのではないでしょうか?

 ここまで述べた私の考え・感想というものは、これは、厳密に言えばもっともっと論旨を詰めるべきものかもしれません。しかしそれでも、「まあ、一応もっともなものだ。」ということになるならば、そこからまた投書された72歳の女性のお気持ちを考えることができると思います。
 そうすると、私は80歳の女性を見舞いに行くことによって72歳の彼女の抱いていたイメージが現実という場面で崩れ去るおそれがあるならば、その危険は敢えて侵さなくとも良いと思います。
 どうしてかというと、現実の生身の人間はいろいろな側面を併せ持っています。特に「高齢」といわれる世代に属する人ならば、その人生の過程で幾多の変遷を重ねてきているのですから、その過程が仮に社会的にはかなり流麗華麗なものであったとしても、しかし相手方にとっては期待したくない側面であることがあり得ます。
 いろいろな例を挙げると誤解を生みやすいのであんまり例示はしたくありませんが、時々自治会の役員会で顔を合わせる親しみの持てそうな人が、実は自分が現役のときのライバル会社の営業担当で、しかもいつもライバル会社に仕事を取られていたという例なんか如何でしょうか?
 このように、興味本位で相手方の経歴を辿ってみたものの、結果は現役時代の余り愉しくもない思い出に行き当たるなら、それは初めから試みない方が良いのかもしれないのです。
 「嫌なものはもう沢山!これからは自分の好みに合うものだけ取り込もう。」」
 こう考えれば、これは確かに高齢世代の特権なのかな、、、と思わないわけでもないのです。

 もっとも、反対に、現実の生身の人間に際会することによって、より一層の信頼感を深めることもまたあるのでしょう。それはご当人がどのように考えて世の人と交わるかという、その人の人生哲学によるところが大きいのでしょうから随分と難しいことです。
 でも私は、そこには「期待に反するかもしれない。」というリスクがある以上、これはどの世代に属する人であろうと、その人の仕事に関することでもない以上、「リスクを冒せ」と求めたりアドバイスをすることもできないだろうと思うのです。
 こう考えてくると、この72歳の女性の投稿者の考え、これは短い投書の文章なので淡白・単調であること否めませんが、それでも、結構共感をもてるのです。

 

颯爽たるイメージの君(3)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 6月 7日(土)06時08分23秒
 
(3)
 しかし、そういう結論を一度出してからは、今度は「それで本当に良いのか?特にネットの主宰者としては正しい考え方なのか?}という疑問が頭をもたげてきて困りました。
 
 直接、関心を抱いたのは新聞の投書であり、特に投書を通じて相手方のイメージを描いた人の心情に共感を覚えたのでしたが、これをネットに置き換えることができるのかというと、場面をネットに置き換えても、あまり不思議がないような状況だろうと思います。
 そして、特に「オフライン」(略して「オフ」)を開催しようものなら、参加者に対してお互いが抱いていたイメージが違うか同じかが何時も話題になるのですから、むしろ全く同じ状況だと言って良いと思います。

 私は、高齢者のデジタル・コミユニケーションに関わって間もなく10年になりますが、振り返ってみますとネットでのコミユニケーションを巡って行われた随分と多くの論争(?)に巻き込まれてきていました。
 そのいちいちの経過をここで明らかにするゆとりはありませんので、その中の幾つかから類型化した形で申しますと、パソコンを通じた会話のあり方、メッセージ交換のあり方ということだったと思います。
 私はこれを「デジタル・コミユニケーションのあり方」と名付け、私の考え続ける一つのテーマとしています。
 この中では、パソコンを通じた会話というものを、何か特別に期待をもったものとして位置付けようとする考え方があります。
 例えば、パソコンを通じた会話はインターネットを通ずることになるから、あらゆる階層と、またあらゆる考え方の人と会話可能となり、しかも双方向の議論になるから非常に充実したものとなる、という考え方です。
 当時はインターネットよりもパソコン通信が全盛の世の中でしたが、いずれパソコン通信がインターネットに収束されるという方向性が明らかになりつつありましたから、これはまた一定の合理性のある考え方であると思っています。
 しかし、私は、実はこういう考え方には懐疑的でしたし、今でもまだ全面的に賛成できるようになっていません。
 それは、パソコン通信やインターネットに実際に関与してきて、これらのデジタルなコミユニケーションに参加する人が、そんなには議論好きでもないし、双方向の議論を歓迎しているわけでもないと感じているからです。
 ですから私は、インターネットなどのデジタル・コミユニケーションにおいても、結局はパソコンの画面の背後にいてパソコンを操作しているひとり一人の人間の性格や趣味・嗜好、そして人生に対する考え方に左右されると思っています。
 
 この点からすると、デジタル・コミユニケーションにおいて形成される会話の相手方に対するイメージ形成もまた新聞の投書の場合と余り変わらないように思われます。
 しかし、この場合においては、新聞というメディア(媒体)とインターネットというメディアの技術進展の可能性ということを見落としていたように思います。
 確かに、現状におけるデジタル・コミユニケーションの技術進展とその普及程度からすると、「相手方のイメージ形成」は「新聞・ラジオ程度」であるかもしれませんし、もっと進んでいるとしてもテレビ程度かもしれません。
 けれども、例えばマス・メディアが取り上げる特定の政治家や事件の主役についてのイメージ形成は、我々は驚くほど正確です。これはこういう特定の人たちの情報のデータベース化が進んでいるからに外ならず、実際にはこれは、そういう特定の人に限らず、我々個人でも進みつつあります。例えば、私・能彦の本名の自分でもそうなのですが、検索エンジンで名前を検索すれば、たちどころに過去の執筆論文等が自分で忘れているものを含めて沢山検出されてしまうほど個人情報のデータベース化が進んでいます。

 

颯爽たるイメージの君(4)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 6月 7日(土)06時06分17秒
  (4)
 そしてこれを(技術進展の可能性を)基本において考えると、この投書のなかの「相手方のイメージ形成」についての考え方は、結局「新聞の投書」と「デジタル・コミユニケーションにおける会話」というメディアの特性によって異なるのではないかと考えます。
 新聞の投書は、現状では活字を通してしか相手方のイメージ形成ができません。現在の新聞はある意味では「完成されたメディア」であり、これが電子新聞に進展でもしないかぎり、一般に相手方のイメージ形成には役立ちません。特に新聞投書を通じて知り合った方は、それだけではメールや参加型のホームページなどに比べてイメージ形成が進まないことになると思います。
 片や、デジタル・コミユニケーションにおいては、通常のあり方としてメールでの情報交換、ホームページへの情報掲載が予定されています。更に、IP電話やカメラ付会話方式が普及し始めていますから、相手方のイメージ形成という面でははるかに優位に立っているということが言えると思います。
 勿論、イメージ形成に関する情報取得を熱心に行うという、そういう主体的な努力を続けるのであれば、それはデジタル・コミユニケーションであろうと新聞投書であろうと同じ程度の情報取得に至ることはあるのですが、それはまた別問題です。

 こうやって考えますと、デジタル・コミユニケーションにおいては、会話の相手方のイメージ形成は容易になりつつあるので、イメージを壊すことを怖れて「見舞いに行かない。」というのは、もはや意味のない考え方となりつつあると思います。
 むしろ、これからのデジタル・コミユニケーションのあり方としては、メディアの特性を利用して(相手方のイメージ形成に努めることは勿論のこと)、積極的に相手方の情報取得に努め、相手方が真に自分にとって有益な、あるいは信頼に足る人なのかどうか見極めることが大事なのではないでしょうか?

 私は先ほど、「インターネットなどのデジタル・コミユニケーションにおいても、結局はパソコンの画面の背後にいてパソコンを操作しているひとり一人の人間の性格や趣味・嗜好、そして人生に対する考え方に左右されると思っています。」と書きましたが、こういうパソコン画面の背後にいる本当の人間が見えてこそ、デジタル・コミユニケーションが充実してくるのだと思います。

 これからの高齢世代のデジタル・コミユニケーションのあり方がどういうものであるかは、まだまだ全貌が見えてきていませんが、しかし、この世代が、長く、(苦しく、辛いことも数多くあった筈の)人生経験を経てきて、そろそろ愉しく、笑いあえる人生を過ごしたいと思っていることも真実だと思います。
 そういう世代が、デジタル・コミユニケーションに現われるある人の「カッコ良い」一面にだけに捉われて、何か決定的なことが起こったときに深く失望するということのないよう、大いにメディアの特性を利用してゆくことがだいじなのではないのかな、、と考え、ようやくこの投書についての整理がついた気持ちです。

 

愛読紙のための弁明と励まし(上)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月27日(火)22時33分4秒
   東北で強い地震があったばかりでしたから、続いて朝日新聞のことを書くのはちょ
っとどうかなと思いましたが、幸齢交歓室で私の考えについて好意的なコメントがた
くさんありましたので、少しだけその後のことを補足しておきたいと思います。
 なお、今日の補足は、どちらかというと朝日新聞に代わって弁明するようなもので
すが、私は朝日新聞の愛読者ですからご容赦を願います。m(_。_)m

 私は先に、朝日新聞は、曽我さんの家族の住所を報道してから、社説・論評で反省
するような記述をしていないし、「読者の声」欄でもこれに関する投書を取り上げて
いない、と書きました。
 でも、その後に、つまり私がこの「今日のZAKKAN」に書いてから2日めにフ
リーライターの方の投書を掲載していました。別に朝日新聞が「今日のZAKKAN
」を読んでいるとは思っていませんから、「今日のZAKKAN」の反響ではないで
しょうが、それにしても朝日新聞の読者がそんなに反応が遅いとは未だに思えません。
 投稿されたその方は、ライターとしての自分の経験を踏まえて朝日新聞の報道を批
判するものでした。
 
 それから、今日の日本経済新聞朝刊(東京版・38ページ)によると、朝日新聞社
は26日に、曽我さんと支援団体の「救う会」に文書を送り、「社内チェックが働か
なかった問題として受け止め、深く反省します。」とした上で、編集幹部が直接謝罪
したい、と申し出たようです。
 朝日新聞を愛読紙とする私は、こういう記事を他の新聞で知らされるというのは非
常に口惜しい気がするのですが、それはさておき、これは事実のようですからここに
書かせていただきます。

 もっとも、「救う会」側は、先に求めた調査要求に対する回答がない、という理由
で、再度デスクの名前や再発防止のための社内処分について質問する文書を送ったと
のことで、曽我さんは、朝日新聞の共同記者会見への参加を引き続き拒否すると報道
されています。

  (注)曽我さん・家族会・「救う会」が更に調査を求めている7点
    (1)関係した記者の名前と記者が朝鮮語を読めるかどうか
    (2)朝鮮語の翻訳を手伝った社内の人間の有無 
    (3)曽我さんの同意を得ずに住所を書いた理由
    (4)原稿をチェックしたデスク等の名前
    (5)デスクたちが曽我さんの同意の有無をチェックしたかどうか
    (6)抗議を受けるまで人権侵害だと思わなかった理由
    (7)再発防止のための社内処分

 

愛読紙のための弁明と励まし(下)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月27日(火)22時31分46秒
   朝日新聞が、こうして曽我さんに「直接謝罪したい。」と申し出たのには理由があ
ります。
 曽我さんが抗議の意思を示したときに、「謝罪は内閣の支援室を通じて行って欲し
い。」と求めていたので、直接に謝罪する道が封じられていたのです。
 そこで、朝日新聞は18日の調査結果公表の際に、支援室ー真野町町長経由で謝罪
文書を送ったのですが、その内容が不十分だったので、曽我さん、家族会、「救う会
」の三者が連名で調査の申し入れをしていたということです。
 ですから、申し出は封印を外して、曽我さんに会わせて欲しいという求めでもあり
ます。

 ここから先は、私の「代弁」兼「励まし」を交えた推測になるのですが、おそらく
朝日新聞は、再度の調査の求めに応じることが難しいと考えて、26日に直接謝罪し
たいという申し入れをしたのではないかと想像します。

 私は決して朝日新聞の肩を持つのではありませんが、デスクや記者を雇用する立場
としての朝日新聞社の苦衷も分る気がします。
 三者の求めに応じて文書でデスクや記者の名前などを回答すれば、三者は当然これ
を公表するでしょうから、そうなると部下を庇わない新聞社、ということで朝日新聞
全社の反発を買うことは目に見えていると思います。
 勿論、私からすれば、再度の調査要求について朝日新聞は既に回答をしていると思
える部分もあります。例えば、求められている事項の「(5)デスクたちが曽我さん
の同意の有無をチェックしたかどうか」や「(6)抗議を受けるまで人権侵害だと思
わなかった理由」がそうだと思います。
 しかし、記者の名前やその他のことは新聞社としてはできれば避けたいことでしょ
う。これは企業としての新聞社、経営者としての朝日新聞幹部としては通常の感覚で
は当然のことでしょう。ですからその苦衷の程が偲ばれるばれるのです。

 ただし、朝日新聞としては、「そういう姑息な考えなどではなく、新聞の独自性と
か独立性、あるいは報道のあり方の問題として、三者の調査要求には応じられない問
題だ。」と考えているのかもしれません。そして、その場合、私の言ったような前述
の推測は否定されるのかもしれません。
 でも、それならば私は大変結構なことだと思います。そして、そうであるならば、
毅然として三者の調査要求には理由を並べて拒否するか、あるいは社説で自社の考え
を堂々と披瀝すべきではないかと思います。


 そうすれば、そのときは一時的に世の人の朝日新聞への反発が増幅するのかもしれ
ませんが、しかしまた、朝日新聞の行き方が確立され、長い目でみれば信頼感が増す
ことになるのかもしれず、その方が新聞社としては好ましい筈です。

 しかし、それをしないで、かつ調査要求にも応じないということになると、これは
私の言ったような推測もあながち否定できないことになろうかと思います。

 どうか、この際は、「これは(この行き過ぎ報道は)社員の冒した犯罪ということ
ではないのに、何故そこまでしなければならないのか?」という気持ちなど持たない
で欲しいと思います。
 そして、報道機関としてのあるべき姿というものを、「朝日新聞だからこそ具体的
に示した。」といわれるような見事な対応を、この際にとって欲しいものだと思いま
す。
 

朝日新聞よ、真摯に対応を(1)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月22日(木)00時21分55秒
   ほんとうは、このところまた忙しくて、とても「今日のZAKKAN」を書いてい
る余裕はない。でも、今までの経験からみると、一度取り上げるタイミングを失うと
もう同じテーマを取り上げることは中々難しい。
 そのことを思うと、なんとか時間をやりくりしてでも書き上げておこうと思う。

 取り上げたいことは、北朝鮮による拉致被害者である新潟県真野町の曽我ひとみさ
んのご主人の住所が、朝日新聞によって詳細に報道された問題である。
 
 この問題が単純でないことは誰でも分る。
 大きくいえば、そもそも拉致問題の解決のあり方は何かということから始まって、
拉致被害者の救済・補償の問題など無数の問題がある。これに連なって、拉致被害者
の問題を報道でどのように取り上げるかという問題もあり、これは報道の使命とも絡
んでいるから報道関係者にとっても単純でない。

 こういうときに当たり、朝日新聞は曽我さんの夫・チャールズ・R・ジェンキンズ
さんの住所を詳細に報道したのである。
 私は、この報道に対して曽我さんが「何の権限があって住所を公開できるのか。記
事をみて多くの手紙が送られることは避けられず、私の手紙が届かなくなったりした
場合、どのような責任をとるのか。」と抗議したことを、全く正しい姿勢だと考える。
 これに対して、朝日新聞は「曽我さんの了解を得ずに差出人の現住所を詳しく記述
したことは配慮が足りませんでした。」とコメントし、電子メディアなどに掲載中の
記事から住所の記述を削除している。

 しかし、この問題は「配慮が足りなかった。」というだけで済む問題ではない。
 発行された13日付けの夕刊にはその住所が明確に書かれており、私自身もその記
事を今横においている。覆水は盆に帰らないのである。
 私は、(1)このような問題は、朝日新聞が拉致問題に対する基本的な認識を欠き
、また拉致被害者に対する対応や取材に関して、社としての基本的な対処方針を定め
ていなかったから起きた問題であると考えている。
 そしてまた、(2)そのことは今日現在でも定まっておらず、今回と類似した問題
はまた繰り返されるであろうと予測する。

 ここでは、以下に上の二つのこと((注)(1)と(2)のこと)を明らかにして
おき、朝日新聞の猛省を求めておきたい。
 

朝日新聞よ、真摯に対応を(2)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月22日(木)00時20分38秒
   まず「(1)このような問題は、朝日新聞が拉致問題に対する基本的な認識を欠き
、また拉致被害者に対する対応や取材に関して、社としての基本的な対処方針を定め
ていなかったから起きた問題であると考えている。」について述べる。
 このことは繰り返すまでもないことかもしれない。何故なら、朝日新聞が5月18
日の朝刊で公表した「本社調査の結果」に、如実にそのことが示されているからであ
る。
 その主要見出しは「資料を断りなくメモ、記事に拉致被害者の立場に思い欠く」と
なっている。これだけ読んだだけで、既に取材態勢に問題のあることが分るが、しか
しこの見出しでは、取材記者だけが跳ね上がっていたかのようである。
 ところが、記事の本文を読めば、これは単に現場の取材記者の独走だったのではな
かったことが分る。
 新潟支局のデスクのチェックを経、そして東京本社の複数のデスクを経て13日付
の夕刊に掲載されている。あまつさえ、東京本社は通常は「プライバシー保護のため
、住所を記事にする場合は基本的に細かい番地までは記していない。」のに、「外国
の住所だったこともあり、プライバシーに思いが至ら」なかったのだいう。
 ここには既に、この問題が拉致被害者に関する記事であるという視点が完全に抜け
落ちていることが明らかにされている。
 そして、更に「東京のデスクらには、この住所に関わる部分が本紙記者による独自
取材の結果という意識はなく」発表された情報であると思い込んでいたというのであ
るから、ここには整理部デスクとしての任務懈怠としか言いようのない怠慢がみられ
る。
 

朝日新聞よ、真摯に対応を(3)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月22日(木)00時18分56秒
   しかし、これだけで私が言うように「拉致被害者に対する対応や取材に関して、社
としての基本的な対処方針を定めていなかったから起きた問題である。」言い切れる
か、という疑問が生じると思われる。
 この点に関しては、私が直接朝日新聞社から確認したものである。
 私は、13日の朝日の夕刊でジェンキンズさんの住所を知って違和感を感じた。し
かし、決して朝日新聞の怠慢なデスクと同じ感覚ではないが、一つには当局発表情報
かと思い、そうでなくとも朝日新聞の編集政策、編集方針であろうと思っていた。
事実、良いか悪いかはさておき、朝日新聞なら「報道の使命」という名のもとに、取
材で得たものは常に公表するのが通常のスタンスであることもあり得ると思っていた
のである。
 ところが、翌日の朝刊各紙(私の場合は朝日・日経・産経)で、曽我さんが抗議し
、朝日新聞が「配慮が足りなかった。」と謝罪したことを知って愕然とした。
 そこで、朝日新聞に対して大いなる疑念が湧き、これは先の「週刊朝日」記者の勇
み足インタビューの問題と合わせて、「社として拉致被害者に対する対応や取材に関
して、基本的な対処方針を定めていないから起きる問題に違いない。」と推測したの
である。
 このため、昼近くになってから、私は朝日新聞社に抗議の電話を入れたのである。
 翌日の報道によると、東京本社には抗議が700余もあったそうだが、私もその一
人だ。しかし電話の応対者は、「この件は広報部が対応することになっている。」と
の一点張りで、しかも、その広報部の電話がふさがっていて繋げない、というとんで
もない理由で応対しようとしなかった。しかし、私はそういう相手に抗議し、説得し
て、ようやく広報部の幹部(役席名・姓は確認済み)と会話ができた。
 私は、元来は朝日新聞のファンであり(事実そうである)、これまでもネットでは
朝日新聞を擁護してきているものだと名乗って(事実、FMELLOWの会議室発言
を検索してもらえば分る。)、今回のことは遺憾であり、どうしてこのようなことが
起こったのか、と詰問し、今後、どう責任をとるのかと問い、そして、最後に”この
ようなことが連続して起こるのは、基本的な対処方針を定めていないからではないか
”と強く尋ねた。これに対して応答者は「そうかもしれない。」と答えたので、私は
是非、基本的な対処方針を定めることを求める、と告げて抗議を終えたのである。

 私は、新聞の取材も編集も報道も、決して野放しに自由だとは思わない。しかしな
がら、そこに公的な権力が規制することも避けるべきだと思う。そうなると、新聞自
身が確固とした取材方針・編集方針・報道方針をもつのが当然であろうと思う。私の
ような市民から見たら、拉致被害者だけでなく、通常の場合においても節度ある取材
態度は必要だと思うが、それはさておいても、当面は、拉致被害者に対する対応は少
なくとも一つの方針なくして報道が成り立たないと考える。
 このことを再度強調しておきたい。


 

朝日新聞よ、真摯に対応を(4)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 5月22日(木)00時16分29秒
 
 ところで、(2)は今後の予測であるが、これについては、「今日現在でも定まっ
ておらず、今回と類似した問題はまた繰り返されるであろうと予測する。」と考える

 私は、朝日新聞が5月18日に調査結果を公表したときに、「これでもって、今後
は一つの対処方針が定まるのだろう。」と考えていた。当然、あの調査結果の発表は
陳謝の意を含んでいたし、秋山東京本社編集局長の談話も「曽我さんの苦しみ 心に
刻む」との題でのものだったからである。
 しかし、今日、それはいかにも甘いものだったと思い知らされた。
 今日の産経新聞によると、曽我さんは朝日新聞社に対し、「調査結果は納得できな
い。」という趣旨の文書を送付していた。
 その文書は、家族連絡会及び救う会の3者連名であるが、問題なのは、その報道が
朝日新聞では一行もされていないことである。
 朝日新聞の対応を忖度すれば、「これは報道の問題でなく、営業主体である新聞社
対する要求である。」とでも考えているのであろうか。
 しかし、曽我さんの求めているものは、金銭的な要求でもなければ新聞社幹部の責
任追求でもない。
 単に事実経過について調査不足であることを告げ、事実はどうであったか回答を求
めているのである。言うなれば、朝日新聞が紙上で公表した調査結果に対する疑問な
のであるから、これは報道するのが朝日新聞読者に対する責任というものであろう。
 けれども、曽我さんの疑問に答えるかどうかではなく、曽我さんが疑問を呈してい
ること自体を報道しないというのは、結果的には拉致被害者の心情に思いを寄せてい
ないということにつながるのではないかと怖れるし、なによりもこういう事態に対す
る基本的姿勢が定まっていないことを窺がわせるものである。
 こうなると、予測できない問題が生じしたとき、また同じように右往左往する可能
性が大きい、と言わざるを得まい。


 こういう目で朝日新聞の論調や紙面構成を遡ってみると、社説・コラムでの反省的
な記述や記事が全くないことに気付く。そればかりではなく、14日から今日までの
1週間の「読者の声」欄をみても、曽我さんのこの問題に関する投稿は一つもない。
問題記事の翌日に700余の抗議があったというのに、朝日新聞の読者は誰一人この
問題について投書をしなかったのであろうか?どうも私には考えにくいことである。
 そしてまた、日本経済新聞社の会長が辞任したり、ヨルダンで爆弾持ち込み事故を
起こした毎日新聞記者の起訴を告げる記事はあっても、公表した調査結果に対して当
事者が疑問を呈したことが記事にならないのは、どう考えても事柄の重大性に思いを
致していないからではないかと考えてしまう。

 願わくは、拉致問題に対する真摯な対応を乞うものである。

 

志の高いことは良いこと(上)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 2月19日(水)23時03分42秒
   日本のプロ野球は、今年は元巨人の松井が大リーグに去るというので、あんまり身を入れて楽しむことはできないかな、と思っていた。
 しかし、今日のスポーツ欄を読んでちょっとばかり気が変わった。
 今年、オリックスには面白い選手が入ってきたらしい。
 選手の名は「マック鈴木」という。

 この選手が新人王資格を辞退した、という記事が数紙のスポーツ面に載っていた。
 マック鈴木はアメリカ大リーグで11年の選手生活をした後、昨年秋にオリックス球団に入団した選手である。
 産経新聞の記事によると、18日のパリーグ理事会で、このマック鈴木の新人王資格の有無が討議され、日本でプロ野球の経験がなく、ドラフトを経て入団したために、資格ありと認められたという。

 ところが当人は、「自分はアメリカで11年のプロ経験がある。新人王はプロに初めて入った人が目指す賞だと思う。」として資格を辞退し、パリーグ理事会もこれを認めたのだという。

 このことをどう見るかということは単純ではない。
 一つには、「新人王資格」などというものに「辞退」を認めるのがおかしい。
 朝日新聞によると、野球協約上はマック鈴木は間違いなく「新人」に当たるという。そして「新人王」というのはスポーツ記者の投票で決まるのだという。
 そうすると所謂「新人王」というのは、野球協約上の「新人」の中から、その年の選手の活躍した結果に基づき、各スポーツ記者が各人の見識に基づいて投票し、その結果に基づいて選考されるものだから、およそ「辞退」というものに馴染まないものだ。
 これは「新人王として投票されても結果は受け入れません。」ということを予め宣言しているだけのことでしかない。

 二つめは、パリーグ理事会がこれを認めたということも選手とファンとスポーツ記者に対する関係でおかしい。
 まず、野球協約上は新人なのだから、彼が今年のシーズンで他の新人が入り込む余地のないくらいに顕著な活躍をした場合のことを考えると、マック鈴木以外の選手が新人王に選ばれても、新人王の価値が薄れてしまう。
 これは、そうした場合にマック鈴木を「新人王」として賞賛したいファンやスポーツ記者の願いを無にしてしまう。

 三つめは、大リーグとの比較をしてみるとおかしい。
 周知の様に、日本のプロ野球からアメリカの大リーグに移った著名な選手は立派に新人王になっているし、今年の松井にもその資格はある。それが、大リーグからきた選手には新人王資格の「辞退」を認めるなら、そこに大リーグと日本のプロ野球の間にある格差を公に認めるようなものではないか。

 

志の高いことは良いこと(下)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 2月19日(水)23時01分44秒
   まあ、難しいことを言えば、まだまだあるが、でも、私は実はこういう3つのことにはこだわっていない。
 それどころか、マック鈴木の「俺はもともとプロ選手だ。」という気概に感じるところがある。
 「新人」などというものは、「その世界に新しく飛び込んだ人」という単純なものではないと思う。その世界での生き方や進み方をまだ知らない人が新人なのであって、その世界でどういう知識・技術や手練手管を使えば良いのか知っている人は「新人」には馴染まないと思う。

 例えば、大物政治家の実力秘書を長くしていて、子分である小物政治家の面倒を大物政治家に代わって見ていた人が、あるときに地盤分けか何かで選挙を経て議員になったとしたら、こういう手合いを新人と呼ぶだろうか?
 因みに、私自身がそうであるが、長くある行政に携わっていて、退職と同時にその行政に関わる自由業とその団体に関わっているが、玄関先の下駄箱の所在がよく分からなかった程度であって、それさえ教えてもらえればその他のことは構ってくれなくともなんとかなり、新人としての気持ちを持つ必要はなかった。
 こういう人種は結構多いのではなかろうか。
 例えば、最高裁判事から弁護士になる人、企業や官公庁の研究所長から大学教授や評論家になる人、サラリーマンの傍ら芸術・創作活動をしていた人が芸術家・著述家に転身する人。。。まだまだあろうと思われる。

 こういう人たちが、自ら「自分は新人だ。」という意識を持つなら、他人がそう言ったり「虚心坦懐に生きる。」と心掛けで言うのならいざ知らず、それはもうモラトリアム人間だと烙印を押されても仕方ないのではないかと思う。
 マック鈴木は、プロ野球の新人研修への参加も拒み、リーグはそれも認めていたという。こういう選手は、リーグの理事会やスポーツ記者諸君からすれば扱いにくい選手かもしれないが、その志の高さは見上げたものだと思う。
 巨人も松井の後はPとかKとか、いろいろ人材は豊富のようで結構だが、でも、どうも私は好きになれない。
 この辺で、マック鈴木のいるオリックスを応援しようかな。
 それにしてもちょっと神戸は遠いけど。。。

 

イラクを巡る構図に変化はない。(1)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 2月16日(日)21時05分43秒
  (1)
 昨日2月15日から16日にかけて、世界各地で、アメリカのイラク攻撃に反対する集会やデモがあった。中には60ヶ国で1000万人が参加したという報道もある。
 国連安全保障理事会では、イラク攻撃を早期に行おうとする米英に対して、フランスやドイツは査察継続を強く主張し、非常任理事国の多くも仏独の主張に耳を傾けつつある。
 これらのことは、世界の趨勢として、米英のイラクを早期に攻撃することが必要だと唱える主張に対して、急激に反対の波が強くなってきていることを示しているかのようにみえる。

 他方、日本では政府が米英の早期攻撃を支持するのか、仏独の査察継続の主張に与するのかについては、全く明快な対応や国民に対する説明をしないまま、現実には非常任理事国にアメリカを支持するよう働きかけていたようだ。

 こうしてみると、日本政府は、既に米英のイラク早期攻撃を容認する方向付けを明確にしている、と言ってよい。
 従来から日本は同種の質問があるたびに、外相も首相も、大事なのはアメリカがイラクに対してどういう対応をするかということではなく、イラクが12年間も大量破壊兵器の廃棄を怠ってきていることであり、イラクがこれからどういう対応をするかである、としてきている。
 野党やメディアは、この質問に対する答弁をとらえて、政府はアメリカに対して言うべき意見を言っていないとしているが、これまでのことを考えれば政府が米英に対して早期攻撃を思いとどまるように意見を言うということは有り得ない、と考えるしかない。
 つまり、日本は、国民の気持ちは別にして、米英の早期攻撃容認派であることは間違いない。

 結局、日本はアメリカの尻馬に乗り、世界の趨勢とは異なった道を歩み始めているかのように見える。
 例えば、本日16日朝日新聞の朝刊第一面の見出しは「反戦の波 地球を回る」であり、同じく第二面にある社説の見出しは「戦争回避が多数派だ」となっている。この二つの見出しと政府答弁などに示される対応を対比してみる限りでは、明らかに日本は世界の輿論とは異なった対応をしていることになる。
 しかし、新聞をよく読めば、正確には朝日新聞もそうは言っていないことが分かる。
 朝刊第一面の見出しは国際社会の市民レベルの行動のことであり、社説の見出しは、国連安全保障理事会という会議の場の空気のことだからだ。
 ただ、紛らわしいことは確かであり、どうも私には、朝日新聞が意図しているかどうかはさておいても、対イラクという問題については「戦争反対」という世論を作りたがったいるのではないかという気がする。
 無論、それが正しくて、かつ平和のうちに事態が推移するのであれば何も言うことはない。

 

イラクを巡る構図に変化はない。(2)

 投稿者:能彦  投稿日:2003年 2月16日(日)21時04分6秒
  (2)
 
 けれども、私は国際社会における(日本も含めた)市民レベルの行動と、国連安全保障理事会のような政府レベルの対応の方向とは異なるものがあることをはっきりとしておかなければならないと思う。

 新聞で報道される市民レベルの行動というのは、これは朝日新聞の見出しにあるような「反戦」の行動である。
 「イラクにしたってアメリカにしたって、どちらも大量破壊兵器は持っている。その意味ではアメリカだってイラクを攻撃する資格はない。アメリカは石油を支配したいがために、言うことを聞こうとしないフセイン大統領の政権を転覆させようとしているだけだ。こういう戦争はやめさせなければならない。」
とか、
 「ともかく戦争はいけないことである。戦争で被害を受けるのは罪もない国民だけである。そんな戦争をしてはいけない。」というのが言ってみれば反戦の思想である。

  (注)この中には「イラクが大量破壊兵器を持っているという証拠はない。それな    のにイラクを攻撃しようとするアメリカは間違っている。」という考えは含ま    れない。なぜなら、この考えでは、イラクが大量破壊兵器をもっていることが    証明されれば、アメリカの攻撃を容認することになってしまうからである。つ    まり「条件付反戦」であるかもしれないが、絶対の戦争反対ではないからであ    り、後述する独仏の論理につながるからである。

 
 けれども、政府レベルの考えは、独仏も含めてこういう戦争絶対否定論ではない。
 戦争というか、武力行使の必要性は認めつつ、その時期をできるだけ伸ばそうというものでしかない。
 このことは武力行使を背景とする国連決議の必要性を認める各新聞の論調からも明らかである。

 まず、いちばん「反戦」を希求しているかにみえる朝日新聞の社説にしても次のとおりである。
 「イラクの疑惑は晴れたわけではない。安保理が今取り組むべきは、態勢を強化しつつ査察を長期間にわたって継続し、イラクの大量破壊兵器を実質的に廃棄させるための方策を練り上げることだ。フセイン大統領に兵器隠しや時間稼ぎの余裕を与えないような強い措置も必要になろう。」

 また、日本経済新聞の16日の社説は、そのタイトルが「イラクの武装解除が共通の目標だ」としているところからも武力を背景として必要であるといるところが窺がえるが、なお、念のために一部を引用すると次のような箇所がある。
 「イラクをめぐる構図は本来『イラク対国際社会』のはずだが、このところ『戦争を急ぐ米英、それを止める国際社会』に変化したように見える。安保理が新たな決議で、一定期間の査察継続を認めるが、それでも積極的協力がなく、武装解除がなされない場合には武力行使も辞さないとの強いメッセージをイラクに送る合意をつくり、構図を元の形に戻す必要がある。」

 このように、事柄の本質においてはイラクの12年にわたるサボタージュを前提とし、その上にたって米英の攻撃の時期を伸ばそうとしているだけであって、その間に、平和的解決を望みつつも、サボタージュを続けるフセイン政権に対しては武力を背景とした圧力を加えることを容認しているのである。

 この点において、反戦絶対を唱える市民レベルの行動と各国政府、国連のレベルの考えとは異なるのである。
 

以上は、新着順61番目から80番目までの記事です。 1  2  3  4  5  6  |  《前のページ |  次のページ》 
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