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芸術の秋、、という訳でもないが、柄にもなくコンサートに行ってきた。
プログラムはバイオリン、ヴィオラ、チェロなどの弦楽演奏曲目ばかりであったが、久しぶりのクラシックということで十分に堪能した。
中でも、チャイコフスキーの弦楽セレナード・ハ長調op48には、彼の作品である交響曲「悲愴」を思い出させるところがあり、身を乗り出して聴いた。
もともと私は「悲愴」が大好きで、もし許されるなら自分の葬式のときにはこの曲を演奏して欲しいと思っているほどである。この交響曲と弦楽セレナードのどこが似ているかというと、そこはたいして鑑賞センスをもたない音楽の素人だからうまくは表現できない。ただ、「悲愴」には、もしかすると演奏を中断してしまうのではないかと思われるほどの、一瞬の深い静寂がときどき挿入されている。そして、すぐまた重厚な流れるような演奏へと移っていくが、この一瞬の深い静寂が次の旋律を効果的にひきたてていて、聴く者の感動を呼び覚ましているように思う。
弦楽セレナードの演奏でも、第一楽章にこの手法が何度か取り入れられているようで、このことが私に「悲愴」との親近感を感じさせてくれた。
この静けさは何だろうと考えた。
バイオリンの奏でる柔らかな旋律が始まってすぐ、突然に演奏を中断するかのように音が途切れ、はっと上を見上げるような虚無感に襲われたと思う間もなく、また、調和のとれたバイオリン、チェロ、ヴィオラの音がコントラバスの重い音をベースにして流れる。これは、青空の下で山歩きをしていて、清水の音を聞いて谷間に降り立ち、思わず自分が周囲の山肌の間に投げ込まれていることに気づいた時の真っ白な静けさのように思う。
チャイコフスキーの作るこの静けさは、確かに深いものである。しかし、それはまたすぐに、谷底から見える青空の高みにまで導いてくれそうな旋律の準備でもある。
こうした静けさが、あるいはこうした静けさの中にいることが、時として私のような者にも何かを感じさせてくれるとすれば、音楽の良さは静寂の中にあると言えなくもないように思う。
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