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ヨブ記

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月16日(火)21時10分56秒
  ヨブ記の話が出て来ましたので・・

聖書論議ではヨブの友人の話のような内容が良く出て来ます。
しかし、ヨブの友人達は、「神様は絶対的に正しいのだから、ヨブの方が悪い」というような内容を繰り返しています。最終的には神様はこの友人達にお叱りになります。
42:7 主はこのようにヨブに語ってから、テマン人エリファズに仰せになった。「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ。

つまりはヨブの方が正しく語っていたと。

一人分の足跡の話があります。
振り返り、一人分の足跡を見て一人で歩いていたと思ったら、イエス様がいたと。
ではなぜ一人分の足跡か、それはイエス様があなたを背負っていたからだという「作り話」が一時期広まりました。
しかし、それは作り話なのは明白。イエス様は「自分の足で歩きなさい」を何度も言われているからです。
「私の荷は軽い。私の軛を負いなさい」と。

この上記のような作りは話をヨブの友人達はしていたわけです。

最終的には神様はヨブが間違っているとは言わずに、「私が大地を作ったとき、おまえはどこにいた? この世のなりわいのどこまで理解出来た?」ということをおっしゃられ、つまりは、まだ知識が足りないから理解出来ないことを教えられます。

主がその御心を教えられる。私はその形ではヨナ書の方が好きです。
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。
4:7 ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。
4:8 日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」
4:9 神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」
4:10 すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。
4:11 それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」

ヨナにとうごまの木を与え、それを枯らし、神様が「惜しむ」という気持ちでニネベをみていた気持ちを教えてくださった。
ヨナには、ヨナの態度に合わせて答え、ヨブにはくいついてきたその姿勢に応じて神様はお答えになりました。

キリスト教を伝えるにあたり、テマン人エリファズのように神様を作り話の美談で伝えようとする人達がいます。
私達が語れる程度の知恵で神様が働いておられるのではないということ。
この世界にある法則や物質すべての造り主であるということ。それらがそれぞれに単独で作用しているのではなく、すべてが繋がって居るという人智を越えた働きが連鎖していること。

「神様とはこういう方だ」と言い切るのはそれは「神様を理解出来た」という「思い上がり」から成っているということ。
42:1 ヨブは主に答えて言った。
42:2 あなたは全能であり/御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。
42:3 「これは何者か。知識もないのに/神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた/驚くべき御業をあげつらっておりました。
42:4 「聞け、わたしが話す。お前に尋ねる、わたしに答えてみよ。」
42:5 あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
42:6 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退け、悔い改めます。

神様の前に遜るしかできない立場を理解すること。
聖書では何度か言われている「主を畏れることは知恵のはじめ」に繫がるなあと感じました。

 
 

***上野原市老連「むろがや」のワープロ打ち込みが終了しました

 投稿者:井本克二  投稿日:2018年 1月16日(火)09時33分17秒
編集済
      *****  *****

 是国の皆さん、お早うございます。毎日寒い日が続きますが、私は元気です。昨年来の

大きな仕事が、ひとつまたひとつと終わり気楽な日々を過ごしています。昨日は風もない

穏やかな日でしたので、午前中の勉強を終えた午後は2時間ほど薪割をしました。といっ

てもひと頃のように紙漉きはできなくなりましたし(周辺の楮(こうぞ)の木を伐りつく

したため若木が育つまでお休みです)、昨年テラス工事で庭に放置しておいたガラクタや

ファイルなどのごみも燃やし尽くしたので、さしあたって薪の必要はありませんが、少し

は体を動かそうと薪割を始めました。先週、市道に放置された長さ数メートルほどの倒木

を自転車で運び込んでおいたので、それを片付けようとしました。ところが鋸の歯がなま

っていてよく切れません。悪戦苦闘して2時間がかりで短く切り、斧で割っているうちに

暗くなったのであと少しというところでやめました。今日はこれから島田桂生会の会計報

告にとりかかります。明日の午後、会計監査をしてもらいますので。

 先週1月9日(火)午前中に市老連機関誌「むろがや」の3人分の原稿をワープロに打

ち込みました。昨年から経費削減のため数人で原稿をワープロで打ち込むことになり私も

会長から頼まれたのですが、いつのまにか編集委員のひとりになっていました。私には2

0人の原稿のうち半分近くの8人分が割り振られました。この日ようやくすべての作業を

終り、予定よりも1日早く、二日後の1月11日(水)午後に市社協の事務局までメモリ

ースティックを届けました。次の編集会議は1月18日木曜午後にあります。この日の午

後は畑の入口の生ごみの穴を掘りました。このところ数日暖かい日が続いたので掘りやす

いと思ったからです。それでも、掘ってみると地面の下は凍りついていました。夕方は、

大月図書館から借りてきた禅宗の本「碧巌録」は英語では Blue Cliff Records と呼ぶこ

とを初めて知りました。1月7日(日)の大月新生教会の礼拝説教で「艱難汝を玉にす」

という話をしましたが、碧巌録が出典とあったので遅ればせながら確かめようと思ったの

ですが、岩波文庫3冊本をぱらぱらと3回探しましたが見つかりませんでした。

 1月10日(水)午前中は、毎朝少しずつ読む文語訳旧約聖書が「ヨブ記」にさしかか

ったので、本文を読む前に「新聖書注解」のヨブ記緒論を読みました。なかなか面白く、

これまでヨブと3人の友人の果てしなく続く議論が理解できませんでしたが、今回少し理

解できたようです。要するに冷静な議論というよりはそれぞれが自分の立場を執拗に繰り

返しているだけのようで、どちらが正しいかというのではなく、特にヨブの苦しい気持ち

を理解することが大切と気づきました。この日の午後は「上野原ラブリ通信」第819号

を発信しました。

 1月12日(金)の午前中はヘブライ語の詩編第119編97~112節を研究しまし

た。夕方6時30分から甲府中央教会で山梨ダルク支援会委員会があるので4時頃家を出

て駅前の一福食堂で早めの食事をしました。食堂のマスターは上野原市消防団の団長にな

ったそうで、夫人が嬉しそうに教えてくれました。この日、甲府から帰ったのは夜10時

過ぎでした。

 1月13日(土)は一日がかりで説教の原稿を書き上げましたが、新年度の教会の礼拝

当番表の作成に手間取り、週報作成、1月誕生カード7人分作成し終わったのは夜の10

時になってしまいました。

 1月14日(日)は妻とともに大月新生教会の礼拝に出席しました。この日はどんぐり

牧場の方々は欠席予定だったので出席者は4名かなと思っていましたが、思いがけず山梨

英和中学高校の生徒二人とその母親が久しぶりで来てくれましたので、合計8名となりま

した。礼拝後、いつもの駅近くの大芳飯店で食事をしようとしたら、昨年合同クリスマス

礼拝に来てくれたスナックのママさんの知り合いの女性がいました。また後から中国人歯

科医師の男性が来たので話しかけたところ話が盛り上がり、親しい友人がまたひとり増え

ました。「一緒に台湾へ行きませんか」と誘われました。それもいいなと思います。

 昨日は、前日話した礼拝説教「私の歩みを照らすともしび」が気に入ったので、ワープ

ロで清書しました。毎度のことながら、清書は手書きで原稿を書くよりも大変で3時間か

かり頭がくたくたになりました。それでは今日も一日、皆さんの上に主イエス・キリスト

の恵みが豊かにありますように祈ります。

【写真上】上野原駅近くの桂川(相模川中流)で遊ぶ一家

【写真中】川が干上がって中洲が出来たので私たちも河原に降りてみました

【写真下】大月新生教会の上に伸びた飛行雲(妻が気に入って撮影)

           *****

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今のうちに・・

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 9日(火)23時40分31秒
  >妻の車で大月新生教会まで

奥様は前もってちゃんと免許を取り、今、車において活躍されていますね。

井本先生は免許が無いということで、電動自転車でご活躍されましたが・・・
今の年齢ですと、普通自動車免許を取るにも、原付を取るにも、周りから「もう年齢的に危険だ」と言われてしまうかもしれません。

ただ、現在のお住まいは山の中で、けっこうな登りもあり、乗り物が無くては将来的に不安ですね。また雪が降ったらかなり行動は制限されそうな地域です。

もう25年前には、たまに道路で耕耘機を見ました。後ろにリヤカーがつけてありナンバーもついている。後ろのリヤカーには幌(ほろ)が自作でつけられており、中に着飾ったおばあさんを乗せておじいさんが運転してました。
病院に連れて行ってたのでしょう。何度か見ました。

また、5年前までは向かいのおじいさんが自転車や耕耘機で移動してましたが、自転車で転んでケガをしてからは、リヤカーをつけた耕耘機がマイカーがわりで買い物もそれで行っていました。
3年前ホームに入り、去年の10月に亡くなられました。
元気な時は毎年、年末に自分の田で作った餅米でついたオモチを私に持ってきてくれてました。

小型特殊は農作業、または農作物の運搬などで役に立ちます。
エンジンも1500ccまでOKで、サイズは小型の普通自動車のサイズ(長さ4.7m、幅1.7m、高さ2m)OKで、まあだいたいは軽自動車より一回り小さいサイズのものが多いです。
また、速度は構造上15km/h以上出ないものなので、危険が少ないということで免許は50問のマルバツのみで実技はありません。
また、座席が二人分あるものは二人乗り可能です。

万一、奥様が具合が悪くなったときなど、病院に連れて行ったり、雪で軽自動車が立ち往生したときに助けに行ったりもできます。小型特殊はエンジンが最大1500ccですから、軽の倍以上。そして畑でも走り回れるように4WDのものも多くあります。

次のリンクを見てください。このようなトラック形状のものがあり、その下の写真のものはキャビン(運転席。屋根も窓もあるので雨で便利)があるものもあります。
農作物の運搬以外にも土を運んだり、ポリタンクで水を運ぶにも便利です。

https://media.ancar.jp/channel/column/664

この免許、小型特殊自動車の免許1日だけで取れます。
勉強は1週間もやればおつりがきます。

前に井本先生はケガをされてしばらく動きが制限されていたと思います。
自転車もだんだんバランスが難しくなってくるのではと・・
いまのうちから遊び半分で、小型特殊をいじってみてはいかがですか?

「農作業するのに人力ではそろそろきつくなったので・・」と言えば周囲も納得するでしょうし、免許センターでも、あえて小型特殊の免許を取る人は「普通車や原付はいらない。農作業で必要」と理解してくれると思います。

写真のものはダンプ機能もあるものみたいですね。(荷台が傾斜して持ち上がり、土砂を降ろせる)
雪が降ったとき、これなら自転車でムリでも、軽自動車でもムリでも、これなら走れます。

時速15キロ・・ 自転車よりも少し遅く、歩くより4倍速い速度。
小型特殊自動車は、「小型特殊自動車免許」以外でも「普通自動車免許」や「自動二輪免許」でも乗ることができます。
ちなみに小型特殊自動車は、中央高速(高速自動車国道)は走れませんが、法律上は首都高速などの自動車専用道路は通行は可能ですが、違反にはなりませんが速度差が大きいため、首都高速を走る人はいません。

 

***  春眠、暁を覚えず

 投稿者:井本克二  投稿日:2018年 1月 9日(火)07時54分52秒
編集済
           *****  *****

 全国の皆さん、そして飯田さん、お早うございます。「口開けてはらわた見せるざくろ

かな」とばかり何気なく書き込んだ私のお粗末な繰り言を、横浜の飯田兄が聖書の言葉を

次々と繰り出して展開してくれました。

 昨日は上野原の自宅から、時おり暖かい雨が叩きつけてくる妻の車で大月新生教会まで

出かけ、昨年10月から妻の強い要求で始めた毎月1回の月曜礼拝をしてきました。4回

目のこの日は初めて我々以外の出席者はなく、昔の牧師は聞く人が誰もいなくても、壁に

向かって、あるいは路傍で説教をしていたことを思い出しました。今回、私は妻一人を前

に15分ほど「偽善者とたたかうイエス」の話をしました。出席予定の近くのラーメン屋

の主人から直前に電話があり「休業日ですが消防署の人が来たので出られません」とのこ

と。もう一人の喫茶店(昔は高校生の溜り場だったそうです)のマスターには前日、教会

の帰り立ち寄って出席を勧めましたが、私と同じ年の彼は以前からボクシング・ジムも経

営しており、地元の若者の指導などで案外多忙のようでした。

 今朝は例のごとく6時前に寝室前で黒猫が餌の催促で鳴き続けていましたが、無視して

寝床に入ったまま1時間ほどこれまでの自分の人生を思い起こしていました。23年勤務

した茅ヶ崎の私立高校の後半、新たに就任した理事長の指導で学園は立て直されましたが

宗教主任として聖書科教師として、私自身も自分なりに役割を果たせたことを誇りに思っ

ています。最近の日本テレビの学園ドラマ「先に生まれただけの僕」の35歳の若い校長

の奮闘は、私のランクは校長より何段階も下という立場こそ違いましたが、理解ある学園

長や校長に恵まれたこともあり、「私も学園を変えた」という自負があります。妻の大反

対を振り切って今年から購読を始めた新聞の記事に、このドラマの脚本を書いた福田靖さ

んのインタビューがありました。曰く「大きく変化する世の中に出ていく生徒のことを考

えるならぱ、おのずと学校も変わらなくてはならない。校長にはリーダーとして改革への

思いが必要だろう」と語っていました。ドラマでは35歳の商社マンの主人公(アイドル

グループ「嵐」の櫻井翔)が左遷されて、その会社傘下の私立高校の校長として出向する

という想定で学校の立て直しに挑んでいます。「美辞麗句をならべた校訓ではなく、飯の

食えるタフな人間を育てましょう」と、冷ややかな目の古株の教員、自信のない若い教員

に呼びかける姿は感動的です。

 そのエピソードのひとつは、進学クラスの優秀な生徒の成績がガタ落ちになったので相

談に来た両親に対して、校長、担任教師が説得する場面があります。生徒は予備校に行く

と言いながら将棋教室に通い、アマチュア5段まで取っていたことが分かります。本人は

「スポーツでも夢はかなうと言われているのだから、自分も夢に賭けて専門の棋士になり

たい」と高校中退も辞さない覚悟です。父親は「そんなギャンブルのような人生は親とし

て認められない」と譲りません。結局は若き校長の裁定で、「プロ棋士をめざして奨励会

に入っても、21歳までに有段者にならなければ退会するという奨励会の規則は、ある意

味で人生のやり直しできるようにという配慮です。だから君はまずは21歳まではプロを

目指し、有段者になれなかった場合はいさぎよくあきらめ大学に進学し、数年遅れであっ

ても社会人になりなさい。」と勧めます。担任教師(女優の蒼井優)も「お母さんはせめ

て高校を卒業してほしいと願っているのだから」と説得したので、ようやく生徒も両親も

納得してそのドラマは終わります。最後に父親が、「本当は、息子がまだ高校生のうちに

自分の人生の目的をはっきり持てるなんて私にはうらやましい」とつぶやくのが印象的で

した。

            *****

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さて、勘違いから長文になりましたが・・

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 7日(日)22時43分55秒
  さて、勘違いから長文になりましたが・・・
始め、井本牧師が「***  家庭とは何か、夫婦とは何か、飯田さんへ」の見出しで書かれたものが数行で、本文の方にはスリッパの件などがなく、夫婦の話もなかったので、見出しで私への聖書論議をもちかけたものと思い、内容をまとめ始めました。
そして書き込みながら、「投稿」をクリックすると、井本牧師の本文が追記されていて、「なるほどスリッパの件からの問いかけか」と・・・

>妻が買ってきてくれた冬用のスリッパがだぶだぶで歩きづらいので夏用のスリッパと重ねてはいたことが妻には許せなかったのです。どうにも予想が立たないので困ります。

これは怒りたくなる気持ちはわかりますね。
もともと冬用スリッパというのは、足の触れる部分がモコモコの生地で冷たく感じないようにできているものと推測されますが・・・
その部分を夏用スリッパで押しつぶして使ったら、冬用スリッパの意味がありません。

聖書では「生きよ」という神様からの言葉が書かれていますが、肉においては「生きる」でしょうが、聖書において「生きる」とは、私は「活きる」の方だと受け止めています。

「活きる」は、目的に従って用いられること。「活かされる」とも言いますね。
目的とは神様が私たちを造られた言葉に従って活きること。
目的を外れた者は肉においては「生きて」いるのでしょうが、聖書では「死んだもの」として扱われています。
冬用スリッパの温かい生地は、夏用スリッパに押しつぶされ、死んだものとなっています。

 

結局、原罪に戻る・・

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 6日(土)02時16分47秒
  先ほど、「私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくないについて書きました。
そして憩いの場、家庭は「とうごまの木」であると書きました。

たとえば、「車がほしい」ということだと、神様が車を与えてくれたら・・
車を与えてくれた神様よりも、車を愛したらそれは神様にとってはさみしいこと。

喜んでもらうため、憩いの場として家庭をあたえてくれた神様のことよりも、その家庭(家族)の方を愛するということは、上記に書いたような意味で、よくないことです。

これはアダムとエバの原罪、エバが「たべてはならない」の意味を勝手に「死ぬといけいから」、「だから死なないなら食べてもよい」と曲解したように
「私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくない」を「神様のことより愛してはならないから、そんなに愛さないようにしよう」というのはエバと似ています。
喜んでもらうために神様が与えてくださったもの。子供が車を欲しがれば、「喜ぶだろう」と車を与えるように、そうやって与えられたものを故意に喜ばないようにしようとするのは間違いであり、、、

また、神様が「食べてはならない」と言われたのにエバの勧めに従ったというのは、神様が助け手として与えたエバの方を(エバの言葉の方を)、神様(の言葉)より重んじた(愛した)ことがアダムの罪でもあります。

ですから神様が与えてくださった妻を喜ぶのは当然でが、その与えてくださった神様よりも愛するのは間違いであり、憩いの場の家庭もそれを与えられたことを喜ぶのは当然であり、ただし、それを与えてくれた神様のことよりも重んじてはならないというのは当然のことではないかと。

結局は聖書は「神様は私たちを良いことで喜ばせようとして恵みを与えてくださっており、それを与えてくださる神様のことを重んじるのは当然ではないか」ということ。
私たちがそれ(神様のおかげ)を意識して生きることが神様の喜びであるということ。
神様が良いものを与えてくださるが、間違った使い方をしないように律法が示されたこと。
人のいざかいはアベルとカインの時の「嫉み」が根源であること。「嫉み」に打ち勝つには「相手に愛を持って接すること」(ただし、いかなる時も神様への意識は忘れないこと)

 

私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくない

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 5日(金)20時51分58秒
  >「私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくない」と

いうイエスの言葉に従っていた私には家族愛・夫婦愛が薄いらしく、娘・息子の入学式や

卒業式にも一度も出たことはなく、PTAや地域活動に全くかかわってきませんでした。


この部分、勘違いされやすいですね。
「私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくない」は、「神様を愛することよりも、家族を愛することをやめよ(少なくせよ)」ではなく、「家族を愛するのは当然のこと。しかし、それよりも神の方を愛することができなければ、私にはふさわしくない」と言っておられます。

「その愛すべき家族を与えてくださったのも神様。それならその神様こそ一番愛すべき存在」ということですね。
この節の部分は他にもヨナ書にあります
4:6 すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。

家族とはこの「とうごまの木」でもありますね。
このとうごまの木を枯らさせた部分はヨブ記にも繋がり、最初の子供達を失いました。
ヨブが新しい子供達(家族)を得るのは、イエス様が「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」と、新しい家族の事の意味を示しています。

先月、他のクリスチャンの方と以下の部分の話をしました。
22:37 イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』
22:38 これが最も重要な第一の掟である。
22:39 第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』

重要な掟を聞かれて2つ示していますが、これは実は「ひとつ」のことを示しているという話です。
『隣人を自分のように愛しなさい。』ということは、「隣人と自分は同格」ということ。それが「第2」であり、第1が『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』ということは、直接言うと「あなた自身(隣人と同格だから)のことよりも、主を愛しなさい」ということを示しています。
ただ、これを直接言うと、信仰の無い人達はこの言葉を絶対に受け容れません。
ですから、1つのことを2つに分けて「やさしく」言われたのだということ。
この言い方だと、人はとりあえず受け取ります。
しかし、根が浅いと枯れてしまうでしょうし、世の思いが覆い被せてしまったりも・・・


隣人を自分の事のように愛するということは、家族も隣人も自分もすべて同格であり、神を愛する事はそれよりも上(その家族、隣人を与えたばかりか、あなた自身を産み出されたのも主)なのは当然のこと」という部分に戻るのです。
 

家庭とは何か、夫婦とは何か、

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 5日(金)20時22分53秒
編集済
  聖書では「家庭」の中に「奴隷」も含まれているように感じます。
また、聖書では、区分けは血族(系列)か、信仰の派か、別の信仰かを主体に分けられているように思います。

さて、夫婦についてですが、創世記
2:20 人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
2:21 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
2:22 そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
2:23 人は言った。「ついに、これこそ/わたしの骨の骨/わたしの肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
2:24 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。


また第一コリント7章では
◆結婚について
7:1 そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
7:2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。
7:3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
7:4 妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。
7:5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。
7:6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
7:7 わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
7:8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。
7:9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
7:10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。
7:11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。
7:12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。
7:13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。
7:14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
7:15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。
7:16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。

◆未婚の人たちとやもめ
7:25 未婚の人たちについて、わたしは主の指示を受けてはいませんが、主の憐れみにより信任を得ている者として、意見を述べます。
7:26 今危機が迫っている状態にあるので、こうするのがよいとわたしは考えます。つまり、人は現状にとどまっているのがよいのです。
7:27 妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ばれていないなら妻を求めてはいけない。
7:28 しかし、あなたが、結婚しても、罪を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありません。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わたしは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです。
7:29 兄弟たち、わたしはこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、

コリントでは結婚は「情欲により姦淫とならないために結婚を勧める」のような内容で結婚を勧めてはいません。

またマタイでは
マタイ
19:4 イエスはお答えになった。「あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった。」
19:5 そして、こうも言われた。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。
19:6 だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
19:7 すると、彼らはイエスに言った。「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」
19:8 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、モーセは妻を離縁することを許したのであって、初めからそうだったわけではない。
19:9 言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」
19:10 弟子たちは、「夫婦の間柄がそんなものなら、妻を迎えない方がましです」と言った。
19:11 イエスは言われた。「だれもがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである。
19:12 結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」

「天の国のため結婚しない者」というのがあります。

それについてはマタイ
22:24 「先生、モーセは言っています。『ある人が子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
22:25 さて、わたしたちのところに、七人の兄弟がいました。長男は妻を迎えましたが死に、跡継ぎがなかったので、その妻を弟に残しました。
22:26 次男も三男も、ついに七人とも同じようになりました。
22:27 最後にその女も死にました。
22:28 すると復活の時、その女は七人のうちのだれの妻になるのでしょうか。皆その女を妻にしたのです。」
22:29 イエスはお答えになった。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。
22:30 復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。
22:31 死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。
22:32 『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」

めとることも嫁ぐこともない・・ これが復活のときとして示されています。


これらについては

ヨハネ
21:23 それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

ここで示されているように、関係の無い人にはウソのように感じられるので、各個人により、道が違うので違う道の人には理解できないことだと思います。

それについてはマタイ
24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。

「連れて行かれ」は新改訳では「取られ」になっています。
「神に取られる」は創世記の5章のエノクも「取られ」いなくなっています。
つまり「取られる」というのは天に召されるというような意味であると思われ、また「残される」は「落とされる」ではないのでハデスではなく、地に残るということのようです。

そうなると、マタイ
5:3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5:5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
5:6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
5:7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
5:8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
5:9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
5:10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
5:11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」

大きく分けると「地を受け継ぐ者」と「天の国はその人たちのもの」と言われる者の二通りがあり、二人がいると一人は取られ、一人は残されるの部分が意味を成します。

去年は娘が戻ってきて喜びましたが、娘は妻側の祖母が甘やかしてしまい娘が学費などの使い込みをして支払がたいへんなことになり、手に負えなくなり妻側の祖母が甘い言葉で釣り、そっちに行ってしまいました。
娘が来ていた4ヶ月は娘を主体で考えてしまいましたが、
第一コリント
7:32 思い煩わないでほしい。独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を遣いますが、
7:33 結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと、世の事に心を遣い、
7:34 心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います。

ここで示す「妻」のように、娘が居たときは「主よりも娘」の方を主体にしてしまいました。
やはり、目で見えるものの方に気持ちが行きやすいのです。

一人でいると、贅沢にも興味が行きません。そばに人が居ると「その人を喜ばせたい」と、物欲で満足できるようにしてあげたくなるからです。

聖書では教会は群れで「支え合う」ように示されて居ますが、また別箇所ではイエス様は「一人で立って歩きなさい」と、群れとは別で「一人」の道の方もあることを示しています。

すべて一人で立って歩ければいいのでしょうが、そうでない者は群れが支える必要もある。

さて、ここで「支え」と言う事。つまり「助け」です。
聖書ではもともと「助け手」として「女」が作られました。
しかし、「一人で立って歩ける者」は「助け」は必要ありません。
ですから「復活の時」の件で示された「天使のよう(新改訳では「御使い」)」で「めとることも嫁ぐこともない」に繫がるのでしょう。

また、家庭、家族、兄弟については、
マタイ
12:46 イエスがなお群衆に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。
12:47 そこで、ある人がイエスに、「御覧なさい。母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。
12:48 しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」
12:49 そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。
12:50 だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

肉の母と霊的母では別であることが示されています。
家庭も、この二種類の見方があります。

さて、ここでマリヤの夫、ヨセフからしたらイエス様はなんなのでしょう? またイエス様から見たらヨセフはなんなのでしょう。
この部分を踏まえないと「家庭」と「家族」については聖書的には説明ができません。
交わる前に妊娠されて産まれたイエス様。ヨセフからしたら「自分の子」と呼ぶには抵抗があるでしょうし、イエス様は「父」については「天の御父」の事を「父」と呼んでいます。

ヨセフとイエス様との繋がりは、ヨセフは大工(家を建てる者)であり、イエス様は(まことの)「神殿を建てる者」という、人であるヨセフは人の住まう所、神の御子であるイエス様は神の住まう所(神殿)という、どちらもそれぞれの存在の「住まう所を建てる者」という繋がりがあります。
そのため、建物を例にしたたとえとして、「目の前の梁」や、「家を建てる礎の石」があげられます。

ここでヨセフからイエス様に渡された財産は、「家を建てる知恵と知識」でした。
その「知恵」も、もともとは主から与えられたものです。
父から子への関係は「譲り渡す知恵と知識」の関係という繋がりがあり、またイエス様は天の父からの言葉を教わった通りに伝えているとも言われました。その繋がりともヨセフとイエス様の繋がりは形として成り立っています。

7つの教会の話、教会はイエスの身体。身体の各部分はお互い役割が違う。他の役割に興味を持つようなおろかなことはしない。右の手のしていることを左手に知られないようにする。

人、それぞれ役割が違い、「夫婦」についてもその意味はそれぞれ違い(勝手に違っているのではなく、主がそれぞれ別の役割として別の意味を持たせている)ので一つの意味を示すと、他からは「それは違う」と言われることになることが多いと思います。

また、夫婦・・つまり結婚についてですが、神(霊)と人(肉、塵)の結ばれること意味の方が聖書としては大きいですね。
また、霊は水に例えられ、また水は命にたとえられ、肉体は器にたとえられ・・
また、「熱意」というべきか、聖書で「塩気」と書かれているものは・・
「塩気の無い塩は役に立たず捨てられて踏みつけられる」

とにかく、夫婦という題材は、「神と人間の関係のひな形」でもあり、そうなると、聖書全体に掛かっている部分であるので、ちゃんと書こうとすれば数冊の本ができてしまいそうですね。


 

***  家庭とは何か、夫婦とは何か、飯田さんへ

 投稿者:井本克二  投稿日:2018年 1月 5日(金)06時44分13秒
編集済
           *****  *****

 今年は月曜から始まったせいか、のんびりと過ごしています。私は特にクラシック音楽

が好きというわけではありませんが、インターネットでモーツアルトやベートーベンの演

奏を何度も聞いています。動画ですから「見ています」と言うべきでしょうか。これまで

は同じ、好きなバロックを何度も見ていましたが、ユーチューブから消えてしまったせい

もあります。途中でアクセスが中断してしまうのもユーチューブの欠点でしょうか。

 とにかくこのところあごひげの見事なチンマーマン演奏のベートーベンピアノコンチェ

ルト第3番、作品364番を何度も見ています。曲そのものよりは、人生絶頂期と思われ

る演奏者の自信にあふれた演奏姿をしげしげと見ています。右手薬指には純金の結婚指輪

が光っています。コミックの「のだめカンタービレ」などで、演奏家にとって指揮者やソ

リストがあこがれの的のようですが、競争が激しく、嫉妬や駆け引きの醜い姿は、幼い時

から美しいキリスト教世界にあこがれてきた76歳の私には不思議であり「新鮮な発見」

でもあり「それが現実の世界なんだろうなあ」と思います。

 「のだめカンタービレ」に出て来たファゴットに似た吹奏楽器バスーンの演奏がユーチ

ューブにあったので、ファゴットより演奏の難しいというバスーンのその低音の魅力を知

りました。演奏者はイタリアのまだ若いヴォルタンという人で、曲目はモーツァルトのバ

スーン・コンチェルト、ケッフェル第191番でした。演奏途中でしきりに大きなハンカ

チで顔中を吹いてはポケットに入れのも面白いと思いました。後ろのイタリアのオーケス

トラの演奏者が暇なときしきりにきょろきょろすることにも気がつきました。

 もうひとつの演奏は、オランダのアムステルダムのモツアルト・シンフォニア・コンチ

ェルタンテの二人の男女のビオラ演奏でした。主役の若い女性は小さいビオラを演奏し、

脇役の若い男性は大きめのアルト・ビオラを演奏していました。どうやら二人はライバル

意識が強いらしく、互いに相手をチラチラ見てはにこりともせず自分の演奏に浸りきって

いるようでした。これまでの私が見てきた演奏風景とはかなり異なるものですが、私自身

どうやら「演奏にひたる」ということはできなかつたようです。多分、70歳まで脇目も

ふらずまっしぐらに人生を生きてきた私にもようやく周囲が見えてくるようになったのか

もしれません。数日前に電話してきた次女に冗談交じりに話したことですが、「のだめカ

ンタービレ」では指揮者志望の「オレ様」千秋が、「変態」のピアニスト野田恵に惹かれ

ながらももてあまして、「のだめのどのような変則的な演奏でも、オレなら合わせて見せ

る」と豪語する場面がありましたが、それを自分と重ね合わせて、「天才の妻に、秀才の

オレは合わせていくぞ」とけなげな決心をしています。

 この正月は久しぶりに1晩だけでしたが8人家族が狭い居間で夕食だけを共にしました。

息子は元日の午後、長女一家3人は二日の午後、次女夫妻は二日の夜に到着しました。私

は若者の話についていけないこともあり、2階でクラシック音楽を聴いたいたというわけ

です。そもそもこどものころから「私よりも家族を愛する者は私にはふさわしくない」と

いうイエスの言葉に従っていた私には家族愛・夫婦愛が薄いらしく、娘・息子の入学式や

卒業式にも一度も出たことはなく、PTAや地域活動に全くかかわってきませんでした。

孫が出来てもそれほど喜ぶことはなく、政治活動にのめりこんできた教会の先輩(大学教

授)が、やがて「孫や嫁にメロメロになった」姿を見ていましたが、私にはそのようなこ

とはありませんでした。

 10年間の目黒や香港の(無資格の)牧師生活、23年間の茅ヶ崎の教員生活、8年間

の上野原の地域活動(区長や民生委員など)、そして現在9年目の大月新生教会の牧師も

どうしても仕事にのめりこんでしまいます。60歳の定年退職まで完全に怠ってきた夫婦

間の対話も、上野原に来て山中の二人だけの生活になりましたがどうしてよいか分からず

70歳の時、骨折で40日間入院したことをきっかけに、多少なりとも何とか対話が成立

するようになりました。普通の夫婦らしい会話ができるようになったのはここ数年のこと

で、今でも妻の逆鱗に触れておどおどしています。まあ、その分、他の夫婦にありがちな

無関心、無感動ではないことは嬉しいことで、新年の最大の目標は「妻の逆鱗に触れない

こと」です。年末から年始にかけて5日間だけ「何事もなく」過ごすことができましたが

3日前にはスリッパのことで妻の逆鱗に触れてしまいました。妻が買ってきてくれた冬用

のスリッパがだぶだぶで歩きづらいので夏用のスリッパと重ねてはいたことが妻には許せ

なかったのです。どうにも予想が立たないので困ります。確かに私自身、小学校の担任教

師は通信簿に「教師になじまない児童」と書かれ、また高校生のころも大学生のころもか

なり変わり者で、そう言われ続けてきましたからしかたがありません。



http://mitachi.life.coocan.jp

 

ザアカイ

 投稿者:飯田  投稿日:2018年 1月 3日(水)23時38分51秒
  このところ、http://mitachi.life.coocan.jp/newpage1310.html の方で音声メッセージを聞く形にしています。
音声だけで聞く方が、目で見ることに捕らわれません。
ただ、礼拝に行くという「行動」も必要ですから、「行く」と「聞く」を別々に実行している形です。
それにしても31日は寒かった。

今回の音声では詩編119より、主から懲らしめられるという部分があり、私もその部分は最近、よく触れる部分でしたので、主からのメッセージ性が強い部分だなと感じました。

最近、私が気に入っている聖書の箇所はルカの19章。ザアカイの部分です。
19:2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
19:3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
19:6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
19:7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
19:8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
19:9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

ザアカイはお金はありましたが背は低く・・
まあ、私も学校で「前へならえ!」では、手を腰に当てて立つ(つまり一番前)ばかりでしたので、背が低いことで人は軽く見られることも多いのは体験しています。
そうなると、人になめられないように何か自信を持てるものに頼りたくなる。
ザアカイにはそれが「お金」だったのでしょう。
お金に忠実だったからこそ、徴税人の頭にもなれたのではないかと思います。
つまりれ人から嫌われる仕事でしたが、仕事に忠実なことで「頭」となっていた。
それが自分の価値であると、自分自身で作り上げなければ不安があったのでしょう。

人の世で暮らすには、人からの評価がなければ低くみられてしまう。

そんな時、イエス様が通られることに。
話題の方、つまり有名人が来られる。
身長が低いザアカイは、知名度というものにもあこがれがあったことと思います。
身長が低いために群衆が多いと見れない。
いちじく桑の木に登り、みようとした。そこでイエス様から声を掛けられた。

今の私達でいうと、天皇が来られるので見に行ったら、面識も無いのに天皇が直々に私の名を呼び、私のことを知っていた(顔と名前を)ということになります。
または、オバマ前大統領がまだ任期の時に、直接呼ばれたら・・
イエス様は神の御子ですから、実際はそれ以上の存在ですが・・
そのようなことがザアカイにあったわけです。
自分の名前と顔を知っていてくれた。そんなことができるのは神様以外にはないでしょう。
ですからザアカイは、ここで神様の存在をしっかりと感じ、信仰が一気に深まったのでしょう。
また、その有名な方が、「みんなの前で直々に名指しして呼んでくれ、家に泊まりたい」と。
そこらの旅館でさえ、天皇が泊まったとしたら、それが大きな看板(宣伝文句)になります。
そんな大きなことをザアカイになさってくれると。

ここでザアカイは、自分が今まで低く見られないようにお金に頼ってきたことなどは、神様のすばらしさの前にはほとんど意味の無いことであり、神様が自分を知っていてくれるということはお金には換えられない喜びであるのを感じ取ったのでしょう。ですからザアカイは「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と、お金に頼っていた生き方から脱却し、お金に頼らなくても立てる人になりました。
ですから、聖書ではザアカイのセリフの前に『ザアカイは立ち上がって、主に言った。』と、「立ち上がる」が示されています。
また、その前の部分では『 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。』とあります。
今までは、人の評価を気にしていたのに「罪深い男のところ」と言われても、気にしなくなり、堂々と主に向き合えるようになっています。

主が自分を知っていてくれる・・ このことがちゃんと受け容れられれば、他人は恐れるに足りないということ。
聖書では「髪の毛一本一本も数えられている」と示されているように、神様はすべての人をちゃんと知っていてくれているということ。
それがわかれば不安はなに一つ無いということ。

ザアカイが財産の半分を貧しい人達に施すとしたこの行動は、神様の愛をしったからこそなのだろうと。
また、財産のすべてではなく、「半分」としたところも、今の私達と同じ、まだ信仰の弱い部分の現れであると。

ここ数年、仕事での立場の変化や、9/2に10年ぶりに姉夫婦のところに住んでいた母に逢い、母は末期癌でしたが、「私は息子を見送るんだ!」と、玄関まで一人で立って見送ってくれ、その3日後の9/5に亡くなりました。まさかその3日前には自力で立って見送ってくれた母がそんなにすぐに亡くなるとは思いませんでしたが・・・

この母が「立って見送ってくれた」の「立って」は、聖書にもよく出てくるイエス様の言葉です。
また、逢って3日という、この3日というのも「3日で建て直す」に繋がり、主からのメッセージ性が強いと感じていました。

もう、10年近く、一人で生活している私としては、身内が亡くなるというのは、さみしいことではありますが、そういう中でこそ、ザアカイの得た喜びの価値が輝いて感じられました。
人は自分の存在を示そうとして、肩書きを求めたり、役割を求めたりして生きていますが、「主が知っていて下さる」ということを実感できれば、世の他の喜びなど取るに足りないということ。

また、最近ではネパールでしたっけ? エベレストへの単独登山を禁止するとか・・
人は冒険をしたがりますが、特に命の掛かった冒険に突き進む者がいます。
これは命を失ってもおかしくない状況で生き残れた時に、「神の存在を感じ取れる」からではないかと。だから生きて帰れたことが喜びなのではないかと。自然を相手にするということは、他人の存在がありませんから、神様を感じやすいのではないかと。


私の日課の通読で、今日は使徒言行録でした。
17:26 神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。
17:27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

試練についてですがこれは成長の糧でもありますが、その原点への導入でもあります。
「人に神を求めさせるためであり」。
今の私のように身内と疎遠になったのも、マタイの福音書
10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
10:35 わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、/娘を母に、/嫁をしゅうとめに。
10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

これがありました。
何かあった時、普通は身内を頼ります。しかし、私の場合、身内が敵となっていました。
そうなると、頼るものがないとき、人はどうするでしょう? 「神様、いるのなら助けてください」と、これは大抵の人が経験しているのではないでしょうか?
頼れる存在が無い時に初めて神様に立ち返るのです。
頼れる存在が無い時、多くの人が「神様!」と願ったことがあるのではないでしょうか?

ですから、「躓き」は「神様からの招き」であるのです。それはイエス様からの招き。
イエス様も「私は躓きの石」と示しておられます。

人は確かに躓かなければ神様を求めようとはなかなかしません。
障害は初期は「躓き」として今の進んでいる方向の間違いを指摘し、そして障害は次からは「試練」として成長の糧となるのだろうと思いました。
 

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